牧師室から2018年度

2018年

5月

13日

言葉は丁寧だけど

3月のことである。病気のせいで体はだるく、頭もボーとしていたせいか、日帰り温泉を出る時、げた箱のカギがないことに気づいた。ポケットを探したがない。慌ててフロントへそのことを告げた。対応した女の店員さんは、言葉遣いは丁寧だが、ちっともこちらが不安で困っている気持ちを察してくれない。

 番号は?そんなのいちいち覚えてない。場所はどこですか?記憶はあいまい。確かここだけど。確かですか。う~ん、そういわれると自信がない。違うかな?あっちがそうかもしれない、と言うとまた聞く。確かですか。そんなのちゃんと覚えてないって。カギをなくすなんて想定してないのだから。そんなことばかり聞いてどうするの?イライラしてくる。

 すると、カギの紛失は千円いただきます、ときた。えっ、お金とるの?ここに名前と住所、連絡先を書いてください。見つかったらご連絡します。ちょっと待って。もう一度、脱衣所まで見てきます。行ったが見つからない。仕方なく千円を払う。この後、どうなるんだろう、見つからない場合はまさか裸足でお帰り下さいってことはないよな、と不安と心配が膨らむ。その辺のことは何の説明もない。

 すると、そこへ男の店員さんがやってきて、どこですかと聞いたので、ここだと思うんですけどと言うと、なんと合いカギ(どこでも開けることができる)を出して調べてくれた。なんだ合いカギがあるんだ、それなら時間をかければ見つかる。ちょっと安心する。ここかなと思うところを2,3か所調べたがどれも違う。しょうがないとあきらめかけていた時、その店員さん、よくカギの閉め忘れもあるんですよ。ここ違いますか?これだ。靴を入れたまま閉め忘れてカギをかけなかったのだ。

 確かにこちらの不注意だが、それにしても、まずこちらの不安や心配を取り除くような説明や対応をしてくれればいいのに。大丈夫ですよ、合いカギで探しますからとか一言でも言ってくれればと思った。ところが、やたら、こちらの不注意を責めてくるような対応に不愉快になったという次第。もう二度と行かない。皆さん、こんなことないですか?

2018年

5月

06日

 憲法記念日に思う

 今年は大型のゴールデンウィークとなり、各地で大勢の人出があったことが報道されていた。しかし、その間、大切な「憲法記念日」があったことを忘れてはいけない。

 13年前、「(衆参両院の憲法調査会の最終)報告書に象徴されるような改憲の動きを、どうみていますか」という新聞記者のインタビューに憲法学者の樋口陽一氏は次のように答えている。「今の世の中に対する不満から世直しへの期待がある一方、改憲を唱える人の間には、自分たちこそが何かをつくりあげるのだというバラ色の期待がある。両者がないまぜになって、とにかく憲法を変えるのだという雰囲気が生まれている。自然災害や人為的な事故が相次ぎ、景気も悪い。昔ならば、それこそ元号を変えて気持ちを入れ替えようと言う気分でしょう。そういうムードの中での改憲論だ」。感情や雰囲気に左右されやすい日本人の特質にくぎをさしている。時代の気分で9条が変えられていいのか。

 今はどうか。安倍政権は本音では9条改憲が最優先施策なのに鎧に隠して、そしてチラチラ見せながら、隙あらば一気に国会での審議を始めたいというところまで来ている。しかし国民の関心はいま一つと3日の新聞記事にあった。だから安心というわけにはいかない。なにしろ衆参国会の3分の2以上を与党が占めている。国民が無関心でいることをよいことに一気に国民投票までもっていきかねない。その時になってはもう遅い。

 憲法とは、時の権力者(国家の指導者)が勝手なことをしないためのしばりであり、国民の自由や人権、生活を守るものであるはずなのに(それを人間は歴史から学んだ)、逆に国民を一つの歴史観や価値観にとじこめ、義務を強調して、物言わぬ都合のいい国民にしようとしている自民党改憲草案。

 景気・雇用、社会保障、教育・子育てと同じく憲法論議も次世代の将来に深く関わることなのに、多くの若者は声を上げず、行動もしない。そういう生き方を大人がして見せているからだ。いつの時代も次世代のことは大人の責任。

 「平和を実現する人々は、幸いである」(マタイ5:9)。

2018年

4月

29日

置き換える読み方

 置き換えて読む。私は時々、その方法を使って読むことがある。例えば「市場は、見知らぬ人同士が出会う場である。しかし、いったん出会った後は、顔の見える人間関係が生まれる。顔の見える関係はありとあらゆるところで生まれ、育まれていく。そこでは、単なる私利ではなく、信義に基づいた関係の構築が大切なことは言うまでもない」という文章。「市場」を「教会」に、「信義」を「信仰」に置き換えて読み直してみてください。「教会」ってところが改めて新鮮にイメージされないだろうか。(ここでの引用文はすべて松井彰彦氏の4月21日朝日新聞「経済季評」より)

 次からは読みやすいように置き換えをカッコに入れてみる。次の文はどうだろう。「人間関係の基本は、相手の立場に立って、ものを見ること(隣人を自分のように愛しなさい)と言ってもよい」。そうすると、この二つは人間関係の基本的なあり方の裏表を表現していることに気づかされるだろう。より一層、人間関係の理解が深まる。

 次は子どもの居場所について書かれた文。「塾(教会、教会学校)は逃げ場がなくなった子どもを引き受ける避難所になり得る」。「学校が公的な場とすれば、塾(教会、教会学校)は私的な場、いうなれば市場(宗教施設)だ」。どうですか。教会の使命の一つがリアルに浮かびませんか。

 医療現場での患者と医師の関係についても触れている。筆者の入院先の主治医の対応を「患者(信者、求道者)目線で接してくれ、患者(信者、求道者)である筆者の不安を和らげ、病気(試練、悩み)に立ち向かおうという気持ちを高めてくれた」と評している。医師を牧師に置き換えて読むと、自らの働きを真摯に見つめ直させてくれる。▲聖書を読む時もこの置き換えの読み方は有効。例えばヨハネ3:16の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世(私)を愛された」。どこか他人事だったことが、自分のこととして迫ってくるだろう。自分事として聖書を読むとよい。

2018年

4月

22日

 カタカナ語の氾濫

毎日、新聞を読んでいるがこれほどカタカナ語が頻発する記事は読んだことがない。先週の日曜の朝日新聞。「広がるフェイクニュース」を扱った特集記事。以下、使われているカタカナ語を列挙しよう。

 フォーラム、フェイクニュース、ネット、データ、ボット、プログラム。最初の見出し部分だけでこんなに出てくる。「ボット」は、自動プログラムの一種だと説明があった。

 本文は投稿記事が多く、記者の自由にならない面があるのは否めないが、次から次と出てくるカタカナ語。デジタル、アンケート、インセンティブ、リテラシー、メディア、メインストリームメディア、ソーシャルメディア、インターネット。インセンティブやリテラシーは最近よく目にするようになったが、正直イマイチよく分かってない。そこで便利な『カタカナ語辞典』登場。インセンティブとは、刺激的な、誘因、動機づけとある。リテラシーは読み書きの能力だとか。

 次を読んでいくと、ネットリテラシー、メディアリテラシーと出てきた。先ほど辞典で調べたので、なんとなく理解。まだまだ出てくる。ファクトチェック、コンテンツ、ジャーナリズム、一次ソース,コンピューテーショナルはわざわざカッコで(コンピューターによる)と付け足してあった。さらに続く。プロパガンダ、プロジェクト、ツイッター、ユーザー、ハッシュタグ、これもカッコで説明。その説明もカタカナ!(キーワード)だってさ。

 ネット関連の記事なので、ある程度のカタカナ語は仕方ないと思っていたが、これほどまでとは。最初読んだときは、なんとなくもやもやして消化不良に陥った。

 続けよう。ツイート、チーム、インタビュー、ロボット、ロビイスト、サービス、サイクル、ヘイト、テーマ。以上です。もちろん、すでに日本語として定着しているテーマとかサービスなどのカタカナ語もあるけれども、一般的な日本人がどれほど理解できるだろうか。ちなみにフェイクニュースとは偽情報、または偽報道のことです。私など完全に最先端より3周遅れ。まあいいか。

2018年

4月

15日

 自己肯定感

 茨木のり子さんの詞華集『おんなのことば』(童話屋)の中に次のような一節がある。子どものなにげない「声」を聴きとる素晴らしい感性だと思う。

 「みずうみ」「〈だいたいお母さんてものはさ/しいん/としたところがなくちゃいけないんだ〉/名台詞を聴くものかな!/ふりかえると/お下げとお河童と/二つのランドセルがゆれてゆく/落葉の道/お母さんだけとはかぎらない/人間は誰でも心の底に/しいんと静かな湖を持つべきなのだ(以下略)」

 私たちはあるがままの自分の感情と静かに向かい合い、影のようにうずいている悲しさ、しんどさ、つらさというような暗い感情を持つことがあるが、決して罪ではないし、悪いことではない。いわゆるマイナスの感情を抱く自分であっても、まるごと愛してくれる人がいてくれる、そう信じられるようになったときにはじめて人間は、本当の意味で自己肯定感を抱くことができると言われている。

 そのために必要なのは、マイナスの感情とおずおずと向き合いながら言葉を交わし合える誰か(家族か友人か仲間か)との絆を見つけていくことだと思う。仲間づくりの基本は「弱音」を吐いても「大好きだよ」「大丈夫だよ」と言い合える関係性をつくることにある。

 何もかも自分一人で抱え込んで、自分を責め続けながら、しんどい毎日を送っている人は、「ああ今の私のこの感じが分かってくれている」と実感できる他者がいない。しかし、そのように悩んで、困って、泣いて身体をこわばらせているのは、響き合えない悲しみであると同時に、自分と響き合ってほしいという心の叫びなのだ。

 泣くという行為に象徴されるように、子どもが身体を硬くして自分を閉ざすという行為は、閉ざすことで開こうとしているのであり、閉ざすことで他者との絆を取り戻そうと必死にもがいているのである。その時、こうした身体と響き合える関係づくりが、大人同士の関係にも、子ども同士の関係にも、最も求められているのではないだろうか。弱さと向きあって共に生きる関係づくり。

*『自分の弱さをいとおしむ』(庄井良信 高文研 2004)24-38p参照

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