牧師室から2018年度

2018年

7月

08日

新来者や求道者をどう迎えるか

先週、「協力伝道会議」のことを書きました。その会議のための「事前配布資料」が先日、連盟宣教部より配布されました(5部、会堂の後ろに置いておきます。お読みください)。その資料に「新来者や求道者をどう迎えるか」という項目があり、さっそく読んでみて、ドキッとさせられました。キーワードは「パラダイムシフト」であると分かっているのですが、具体的に考えてみる必要を教えられました。以下、引用して紹介します。

 新来者が来ると嬉しいですね。でも、次の週に来て下さらなかったときは、ほんとうに落ち込みます。新来者や求道者の存在は、教会にとって、間違いなく「元気の源」です。ところで、「パラダイムシフト」(発想の転換)という点で見つめ直してみたいことがあります。新来者が定着し始めますと、教会は「新来者クラス」とか「求道者クラス」という学びを意識し始めます。そして「キリスト教ABC」とか「教会生活入門」などを学んでもらいたいと考えます。でも、その前に……。

 そもそも、その新来者がある日突然、礼拝に来られたということは、とても奇跡的なことなのです。ですから、教会がまずしなければならないことは、「いったいあなたの中にどんな渇きがあったの」「あなたが生きるために何を求めようとしたの」とその方から聴かせていただく姿勢をもつことではないでしょうか。つまり、「教会が語るべき事」を知っているのは、教会ではなくその新来者なのだということです。

 教会は、人間に大切なものを「教会が持っている」と考えやすいですが、そうではなく、教会が人間の人生やいのちについて語るべき事は、教会の外から飛び込んでくる、という事実に気づくべきです。そして、その新来者といっしょに、教会が、聖書から聴き、一緒に学んで行く。このような「構え方」や「向かい合い方」のチェンジも、パラダイムシフトなのです。

2018年

7月

01日

パラダイムシフト

 今年度、日本バプテスト連盟結成70年の取り組みとして、全国の連合で「協力伝道会議」が開催される。神奈川連合では9月23日~24日にマホロバ・マインズ三浦での「連合の集い」の中で行われる。

 この会議は、今という時代を確認し合い、これからの連盟における協力伝道の働き、あり方について共に考えるものである。「協力伝道会議」のキーワードは「パラダイムシフト」という言葉。パラダイムとは「ある時代に支配的なものの考え方・認識の枠組み。規範」とされている。「パラダイムシフト」とは、そうした考え方や枠組み、規範といったものの変化を指す言葉である。

 教会は、時代の変化、人々の生活環境の変化、社会情勢の変化と決して無関係ではない。私たちが直面している今日の困難は、これまで教会が持ってきた常識や前提が通用しなくなったことの表れかもしれない。だとすれば、これまで当たり前だと思ってきたことや、当然のように目指してきた目標を問い直し、視点を変えて見直していく必要がないだろうか。常識や前提、そして物事を見ていく視点が変わることで、事柄を捉える基準としての「ものさし」も変わることになり、これまで「問題だ」「課題だ」と受け止めていたことも、むしろ豊かな可能性を含んだ出来事として受け止め直されていくこともあり得ると思う。

 平塚教会では、数年来、ビジョン委員会、信徒会、総会、執事会などで話し合いを重ね、「地域(隣人)に開かれ、地域(隣人)に仕える教会」をコンセプトに、「子どもプロジェクトの推進」というビジョンを決定し、多目的集会所「こひつじ館」を建てた。「子どもプロジェクト」と名付けたのは「信仰の継承」という課題を明確にし、自覚するためである。また、子どもからその家族、地域へとつながりを広げようというねらいも含まれている。

 その手始めに子育てサロン「こひつじひろば」が4月から始まった。「手芸の会」もこひつじ館で行うようにした。さらに来年は小学生の居場所づくりをしたいと願っている。まさにパラダイムシフトした取り組みではないだろうか。

2018年

6月

24日

もしバナゲーム

 先日の新聞に「もしバナゲーム」が紹介されていた。最近、全国の介護施設などで広がっているカードゲームだそうだ。「もしものための話し合い」を「恋バナ」よろしく「もしバナ」と略したゲームということらしい。

 「余命半年」と宣告されたら何を優先して生きるか。トランプのような36枚のカードでゲームをしながら考える。自分らしい最期を迎えるため、早いうちから終末期について家族らと話し合っておくことは大切だろう。でも、なんとなく「縁起でもない」という理由で、避けていないだろうか。このカードゲームのいいところは、ゲーム感覚でそんな難しい話題を家族や友人と考えたり話し合うことができることだ。

 このゲームは、一人でもペアでも4人1組でもできる。それぞれ多少ルールは違うが、カードに「誰かの役に立つ」「痛みがない」「家族と一緒に過ごす」などと書かれているので、自分にとって大事なこと、希望するカードを選ぶ。そしてなぜそれを選んだか理由を考え、家族や友人に説明し、話し合う。自分と他人との死生観や価値観の違いが分かり、面白い。

 さっそくカードを購入し、私たち夫婦でやってみた。まず私が自分にとってとても重要、ある程度重要、重要でないと35枚のカードを分ける。同時に連れ合いは「私がどう思っているか」を想像して、同様にカードを分ける。そして、互いの選んだ「とても重要」を比べる。私たちの場合、とても重要の10枚のうち5枚が一致した。多いと思うか少ないと思うか微妙なところ。一致したカードは、確かに日ごろ私が連れ合いに言っていたことだった。その後、なぜそれを選んだの?そんなことはあまり重要ではないよ、などと話が弾んだ。確かに楽しい。今度は子どもたちと親子の関係でやってみたい。

 次に「サロン虹」で4人1組でやってみた。それぞれがとても重要なカード3枚を選び、なぜ選んだかを説明していく。ゲーム感覚で互いの思いを共有することが出来た。

2018年

6月

17日

平塚教会の黎明期

教会組織総会が1950年6月18日。今年は教会組織68周年となる。昨年のこの欄で、教会組織までの前史ともいうべき初代牧師長尾先生の戦前の宗教弾圧の苦難の歴史を紹介した。今回はその後の教会組織前後のことを振り返り、神の導きと恵みの数々を想起し感謝したい。

 『創立50年誌』(2000年発行)の年表に「1946年(昭和21年)10月 長尾三二牧師居宅にて伝道開始」とある。戦後いち早く平塚でホーリネス教会として伝道されていた長尾先生は、1946年、目白ヶ丘教会の熊野清樹(ゆや きよき)牧師によってバプテストの群れへと導かれ、その後(1948年10月)目白ヶ丘教会平塚伝道所として福音宣教を進められた。当初信徒6名とある。神奈川連合で最初のバプテスト教会である。

 その後、米国南部バプテスト連盟日本宣教団からの莫大な献金援助によって教会土地取得(1949年7月)、教会堂建築がなされ、1951年10月に献堂式が行われた。この間のことをA・K姉(最初からの教会員の一人)は『創立50年誌』に次のように書かれている。「まもなくして終戦を迎え、長尾先生がすでに献身なされて神学校を卒業され平塚バプテスト教会に就任されました。現在の豊原町に土地を購入し、アメリカバプテスト教会からの援助で、教会堂を建築する事が出来、そして牧師館も与えられて、長尾牧師先生ご夫妻が住まわれたのです。献堂式(1951年10月7日)には、大勢の方々と共にこの喜びを分かち合い、新たなる伝道の為の決意を固くし、神に感謝の祈りを献げたのです。」

 この喜びの献堂式の1ケ月後のE‣B・ドージャー宣教師による特別伝道集会において信仰決心し、11月26日にバプテスマを受けられたのがS姉とT姉である。

 教会は昨年より「子どもプロジェクト」というビジョンを与えられ、多目的集会所「こひつじ館」を建設、4月より地域に開放された子育てサロン「こひつじひろば」が開始され、新たな1ページが開かれた。

2018年

6月

10日

「名優」の法則

昔、ある著名な牧師が書かれた「名優の法則」と題した文章を読んで感銘を受けたことがあって、今も時々思い出しては読み返す。「名優とはどんな人のことをいうのでしょうか。大根役者ほど役の中に浸り切っていて、自分の演技がいかに下手なものか見えていないといいます。名優と呼ばれる人は、演じる自分とそれを見ている自分がいて、常に自分の演技を修正しているそうです。自分を客観的に見る目がなければ、名優にはなれません。これは映画や演劇の世界だけでなく、ビジネスの世界にも、また私たちの日常生活にも当てはまる真理です」(「ハーベスト・タイム」2005年7月号)。

 ことわざに「人のふり見て我がふり直せ」というものがある。私たちは自分のことは自分が一番分かっていると思い込んでいるが、意外とそうでもない。自分を客観的に見ることのできない状態は、聖書的に言えば、神から離れた人の霊的な状態と同じと考えられる。罪は私たちを神から切り離すだけではなく、自分がいかに霊的に悲惨な状態にあるかということも分からなくさせる。

 幸いなことに、聖書は自分自身を観察するための客観的な鏡となる。聖書の言葉に照らし合わせて自分の姿を見始めるなら、今まで見えなかったものが見えてくる。それは単に、他人の目に自分がどのように映っているかが分かるということではない。創造主である神の目に自分がどう映っているかが分かってくるのである。

 使徒パウロは、自分の姿を見て、こう告白している。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです」(ロマ書7:18)。

 これこそ、聖書の鏡を通して自己を客観的に評価した言葉であろう。このような自己認識を持った人には、大きな可能性が広がるだろう。その人はキリストにある罪の赦しを受け、聖書的価値観と世界観の中で生きるようになる。また、日々聖書のみ言葉によって自分をモニターし、その考えや行動を修正するようになる。そういう人こそ、人生の名優になれるのではないだろうか。

平塚バプテスト教会

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