牧師室から2018年度

2018年

9月

09日

バプテストとは何か?

私たちは「バプテストの教会です」と言ったり、「私はバプテストです」と言ったりする。では、何をもって「バプテスト」と言うのか。改めて考えてみたい。

 求道者や他教派の人たちに「バプテストの信仰って何ですか」と問われると、「聖書主義です」とか「万人祭司主義です」、「会衆主義で各個教会主義を尊重します」とか、さらに「幼児洗礼をしません」などと説明する。それはそれで間違いではないが、では、なぜそれらの主義をもって「バプテスト」と言うのか、というもっと根本的な問いが起こってくる。

 その問いに対して金丸英子先生(西南学院大学神学部教授)は『バプテストの信仰 ここに立って、私たちは…』(日本バプテスト連盟宣教研究所発行 2015)の中で、「個の自覚的主体性の尊重」であると書かれている(90p)。これは、他の諸教派に比べてバプテストになおも際立って色濃くみられる特質であると述べられている。

 バプテストは各個人による信仰告白や各個教会による信仰告白を尊重し、いわゆる「使徒信条」や「○○信条」などをそのまま鵜呑みにしたりしない。それは、人と教会それぞれの次元で「個(個人、各個教会)の自覚的な主体性」を何より大切にしているからである。バプテストはそのようにして、神との人格的な交わりのなか、個々人と各個の教会が自覚的に信仰に目覚めさせられ、主体的に信仰の告白をするそのようなあり方を早い時期からかけがえのないものとしてきた。それはバプテストの歴史からもうかがえる。

 ここで注意しなければならないことがある。「個の自覚的主体性の尊重」を履き違えると、独りよがりの自己主張の強い信仰に陥りやすいことだ。また、自己目的化、自己実現の信仰と変質する危険性がある。それは自分の信仰、自分の教会のことのみ考え、他者のことは視野に入らなくなる恐れがある(隣人性の喪失)。だからこそ,我々バプテストは、「自主独立であるが、同時に他の教会との協力を喜ぶ」ことを忘れずに告白し続けている。それは連盟や地方連合を通して互いの交わりを深め協力して伝道を進めていくことに表れているだろう。

2018年

9月

02日

早朝散歩継続の秘訣

断続的であっても10年続いている早朝散歩。平塚に来て2か月目から始めた。すっかり私の日常生活の一部になっている。それまでも運動不足解消のために、プールやスポーツジムに通ったり、夕方にウォーキングやジョギングをしたりと試みたが長続きしなかった。長続きの秘訣は何だろう、と考えてみた。

 まず、早朝だと不意の電話や訪問がない。もちろん会議など出かける予定は入らない。そう、だれからも早朝の時間帯を邪魔されないので、あとは自分の体調と意志だけで実行できること。旅先でも同じで、早朝散歩を楽しんでいる。

 自分の体調と意志だけと書いたが、生身の人間だから、病気もするし、前夜遅くまで会議があった翌朝は寝坊もする。雨が降ってできない日もある。甲状腺の症状が悪化した時は1か月以上も休んだが、早朝散歩をやめようとは思わなかった。一週間に2、3日しか行けないような生活のリズムが狂った時も、早朝散歩で生活のリズムを取り戻していった。雨が降っても槍が降っても一日も休まないぞ、というような完璧主義をやめて、その辺は適当に考えると肩の力が抜けて、無理なく続け られた。

 ちょっと体調がよくない時とか少し寝坊をした時もミニ散歩と称して短めにしてあきらめずに出かけたのもよかったのだろう。そこは柔軟に考え、対応していけばいい。とにかく一日のスタートが早朝散歩から始まると後もスムーズに進行する。

 早朝散歩の後は、デボーション(聖書日課と祈り、黙想)、コーヒータイム、新聞を読む、そして朝食と続く。朝食後は日替わりメニューとなる。夜は会議や特別な用事がない限り9時には寝るようにして、5時には起きる。最近は4時に起きて散歩に出かけることもある。そんな時は朝めし前の仕事がはかどり、気分爽快。その日一日ゆとりをもって過ごすことができて快適。

 副産物もある。散歩時にチラシ配りをすること。一石二鳥。100枚持っていくと30分で終わる。少し遠くだと自転車で行って配ることもある。また、散歩をするとその日の体調がわかり、健康管理に役立つ。これからも続けたい。

2018年

8月

26日

カオス(混沌)の寺院

大阪の應典院の住職、秋田光彦さん。朝日新聞7月28日版に紹介されていた。彼はこの寺院で年間100以上の演劇や演奏会を繰り広げ、「いのち」のことを考える。「アートと共存するカオス(混沌)の寺院」と呼び、「宗教は本来、非日常的なもの。常識を疑う機能があります」と言われる。

 僧侶である彼が言っていることは教会にも当てはまる気がした。仏教界でもこのところ、寺を開いて、社会と積極的に関わらねばと「社会参加」が叫ばれているが、應典院はそのような「開かれた寺」の先駆的な存在だという。そのきっかけが、オウム真理教の事件だった。

 彼曰く、オウムは、伝統ある宗教に見向きもしなかった人を引きつけた。葬式や墓をテーマとしてきた既成仏教は、いきなり狂気の匕首(あいくち)を突き付けられ、打ちのめされと。そして、私たちの手からこぼれ落ちる若者の感情を、現代の都市で引き受けていくにはと考えさせられたと告白する。その結果、「人々が協働しながらコミュニティーを作っていく」という方向性がはっきり見えたそうだ。それは寺の本来あるべき姿、人々が行き交い、出会う場。教会もまた、そういう場でありたい。

 彼はまた次のように言う。現代の日本は、生きづらさ、時代との折り合いの悪さ、そうした気分が目に見えない形 で蔓延していて、誰もが内面に抱えている、と。それをすくい取って、光を当て直したものが演劇かもしれないし、アートかもしれないと。「そうした気分をすくい取って、光を当て直す」作業が教会の宣教の働きであろう。

 「すべての人は仏の前では平等です。こぼれ落ちていく人こそ、ここに来られるようにしたい。……何か特定の目的を掲げると、ここにいられなくなる人が出ます」と彼は言っている。私たち教会は「特定の目的」を押し付けてはいないか。以前、新来者と一緒に教会が、聖書から聴き、一緒に学んで行く。このような「構え方」や「向かい合い方」のチェンジが求められていると書いた。そのことをもう一度考えたい。

2018年

8月

19日

おはなしのへや

日本バプテスト連盟や神奈川バプテスト連合の牧師や教会の人たちとは出会う機会も多いし、親しい交わりの恵みに与かることができ感謝である。しかし、近隣の他教派の教会の牧師や教会の人たちとは何年住んでいてもその機会がなく、交わりがほとんどない。少し寂しい思いがしていた。

 そんな中、あることが縁となり、八重咲町にある湘南キリスト教会の方々との出会いが与えられた。その中のお一人で伝道師をされている澤谷由美子先生から自著である『おはなしのへや』(いのちのことば社 2005)をいただいた。副題に「お母さんのための絵本の旅」とある。「読み聞かせのすばらしさ、子育ての意味深さ、自分を育てることの楽しさをつづった、女性のためのエッセイ集」と本の帯に書かれているが、読んでみて、改めて「読み聞かせのすばらしさ」を再認識した。

 私も子どもや孫に随分絵本の読み聞かせをしたが(今も時々しているが)、それはただ、彼らと触れ合う時間、楽しい時間を共有するためだったような気がする。絵本そのものの持っている力、楽しさ、意味深さには思いがいってなかったようだ。

 この本にはたくさんの絵本が紹介されている。最近、孫が持ってきた絵本に『のろまなローラー』があり、読んで聞かせたばかりだが、この本が、「『のろまなローラー』は、地味な作品ですが、淡々とわが道を行くローラー車の姿がすがすがしく、このように生きたいものだと思わされます」と紹介されていた。

 友だち・出会い・春を描く、と紹介されている『とんことり』。この絵本は数年前、孫によく読んでやった絵本。「とんことり」という題名は、郵便受けにスミレの花束やタンポポの束、手紙が落ちる音である。「とん、ことり」。その擬声語が面白く、また読んでいくうちに何度も出てくるのでリズム感が楽しい。また絵も昭和の香りがする懐かしさがあり、忘れられない絵本だった。「『スミレ、タンポポ、手紙、折り紙人形……』を『トン、ことり』と郵便受けに入れて近づく。私たちはこんなにも心をこめ、熟慮した出会いをつくっているでしょうか」と書かれている。

 幼い子どもの柔らかい心にしみ込んでいく絵本万歳。

2018年

8月

12日

18才と81才の違い

 以前、シルバー川柳なるものを紹介したが、世の中には面白いことを考える人がいるもんだと改めて思ったのが、この「18才と81才の違い」というユーモアのある文章だ。ある随筆の中で紹介されていたもので(矢頭美世子コラム「次世代へのことづて」)、さっそく「サロン虹」の皆さんに紹介して、みんなで大笑いしたのだった。引用して紹介する。

 ◎道路を暴走するのが18才、逆走するのが81才。
 ◎心がもろいのが18才、骨がもろいのが81才。
 ◎偏差値が気になるのが18才、血糖値が気になるのが81才。
 ◎受験戦争を戦っているのが18才、アメリカと戦ったのが81才。
 ◎恋に溺れるのが18才、風呂で溺れるのが81才。
 ◎まだ何も知らないのが18才、もう何も覚えていないのが81才。
 ◎東京オリンピックに出たいと思うのが18才、東京オリンピックまで生きたいと思うのが81才。
 ◎自分探しの旅をしているのが18才、出掛けたまま分からなくなって皆が探しているのが81才。
 ◎「嵐」というと松本潤を思い出すのが18才、鞍馬天狗の嵐寛寿郎を思い出すのが81才。

 以上です。ちょっとブラックユーモアのようなものもあるが、どれもこれも痛快に高齢人生を笑い飛ばして底抜けに明るい。調子に乗って、私も作ってみた。

 ◎選挙に行かないのが18才、杖をついても選挙に行くのが81才。
 ◎親のすねをかじっているが18才、自分のすねをかじっているのが81才。
 ◎テレビ離れが18才、テレビ漬けが81才。

 皆さんも作ってみてはいかが?この応用編で「男と女の違い」バージョンや「東京人と大阪人の違い」バージョンなど面白いと思うがどうだろうか。

 シルバー川柳の「万歩計 半分以上 探し物」「この動悸 昔は恋で 今病気」「土地もある 家もあるけど 居場所なし」「起きたけど 寝るまで特に 用はなし」「厚化粧 笑う亭主は 薄毛症」などにもみられるが、笑いは自分という存在を相対化して(客観的に)見る視点から生まれる。シルバー川柳も「18才と81才の違い」の場合も、高齢化を冷静に相対化し、積極的に受け入れて楽しむゆとりから生まれているようだ。いくつになっても笑いのある人生を送りたいものだ

平塚バプテスト教会