「希望を待ち望む」  ローマの信徒への手紙5章1-11節

 私たちにとって終末とは、歴史が終わることを第一には意味しない。終末の第一の意味は、主イエスがもう一度来られること、再臨である。

 

 終わりは英語でエンドというが、エンドには目標という意味もある。終末において歴史は目標に達するとも言える。だから、時間が終わる時、主イエスが来られるというより、逆に、主イエスが来られるから、時間的歴史の流れは終わり、神の国という目標に達すると理解できる。だから、私たちは「終末」という言葉のかわりに、むしろ「希望」と言いたいと思う。終末待望信仰というより再臨待望信仰、再臨待望信仰というより希望を待ち望む信仰、と言いたいと思う。

 

 では主イエスが再び来られる時、何が起こるのだろうか。「最後の審判」である。しかしここで注意しなければならないことは、信じる者と信じない者とは人間的尺度で二分されるものではないことである。最後の審判の主は人間ではなく神ご自身。自分や他人にどんなに見えようとも、奥深いところまで見て判断されるのは神ご自身である。それなら、人間としてだれが神の審判に耐え得るだろうか。

 

 だがしかし、神の審判はすでにその先取りとして、キリストの十字架と復活において起こったことを私たちは信仰において知っている。キリストにおいて起こったことは、救いという出来事。今日の聖書個所はそのことを証ししている。

 

 終末とはこの救い主イエスが来られることであり、最後の審判とはこの主イエスにおいて神がなされるものである。不条理、不平等を超えて愛の中に私たちを招き入れるもの。その愛と救いによる完成を待望するのが再臨信仰。いや、希望を待ち望む信仰である。

 

 先ほど「神の審判(終末の出来事)はすでにその先取りとして、キリストの十字架と復活において起こったこと(救いの出来事)を、私たちは信仰においてすでに知っている」と言った。だから、主イエス・キリストにおいて私たちの現在は終末と直結されている。終末に対する私たちの態度は、はるかなものを望むというよりも、主イエスにある現在を歩むということになろう。毎日のささいなことも、永遠と結びついているのなら、決して無意味なものではない。教会、家庭、職場、学校の取るに足りない問題も、神の目には取り組むに価値ある問題なのである。

 

 日々取り組むべき問題の最後に、私たち自身の死の問題も含まれる。死後の世界をあれこれ空想してもむだ。しかし確実なのは、主イエスは私たちの「生の主」であると同時に、私たちの「死の主」でもあるということ。主イエスが毎日の生活の主であり、また終末の主であるなら、どうして死においても主でないはずがあろうか。私たちの希望とは「希望を持って生きる」という延長線上に、「希望を持って死ぬ」ということがあるということである。私たちが最も恐れている自分自身の終わりである死も、また終末も、主イエスの救いの場の中におかれているという信仰、すでに先取りとして、救いに与かっている。これこそ私たちの究極の希望にほかならない。この希望に生きる。