「復活のイエスが今も共に」  ルカによる福音書24章13-35節

 イエスが復活された日、二人の弟子は、朝方起こった空の墓の出来事を婦人たちから聞いたにもかかわらず、エルサレムを去ってエマオの町に向かっていた。彼らは、今朝の婦人たちの話を不思議なことがあるものだとは思いつつも、天使の話を信じることができなかった。「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」、これが、彼らのイエスへの期待だった。死んでしまえば、その夢も終わりだった。彼らは、イエスがユダヤの王となって、ローマからの解放を戦い取ってくださるだろうと信じていた。

 

 イエスは、生前、三度も死と復活について話をしたが、「12人には、これらのことが何も分からなかった」(18:34)のだった。「彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである」とある。この二人の弟子も自分たちの期待するキリスト像をイエスに当てはめていただけだった。私たちはどうだろうか。いつしか自分でイエス像を作り上げていないだろうか。それも自分に都合のいいイエス像を。聖書は語る。その場合、何も分からない、理解できない、失望するだろうと。それがこの二人の弟子たちを通して私たちに教えていることではないか。

 

 ここでは、二人の弟子たちが、イエスを誤解し、夢破れ、失意の中を歩いている様子を描く。そんな彼らとイエスは歩まれる。そして、彼らの話をよく聞いてくださる。どんなに自分たちが期待していたか、そして、どんなに今失望の極みでエルサレムを後にしているのか、彼らは堰を切ったように、イエスに話すのだった。

 

 はじめ、イエスは、彼らの気持ちに本当に寄り添っているようだった。しかし、彼らが、今、朝方の空の墓の話に及んだ時に、イエスは、かなり興奮されて、弟子たちに話し始められた。どうして、その復活の話を信じようとしないのか、お前たちはただ不思議がっているだけで、重要な知らせを受けたにもかかわらず、それを無視するのか、そのような思いが込められているように思われる。その知らせをどう受け止めるのか、それこそが最も大切なことだったのだ。聖書に書かれている出来事は、自分たちにとって不都合な、そして不思議なことがたくさん出てくる。そのような出来事とどのように向き合っていくかがいつも問われている。その出来事に自分の考えを押し付けるのではなく、その出来事からただひたすら聴くことが肝要なのではないか。

 

 ここで、イエスは、なんとモーセの時代から話を始め、ついには旧約聖書全体に至るまで、神の書物がイエス・キリストそのお方について語られていることを説明されたのである。ただ一心に聴き入っていた彼らの心の中は熱いものでいっぱいになった。彼らは、イエスからもっと多くのことをお聞きしたいと思った。出来ることなら、いつまでも一緒にいたいと思った。そんな彼らは、いつもイエスがされていたパン裂き行為をこの旅の男がした時に、初めて、その人がイエスだと気づいた。イエスらしい振る舞いが、そこには表れていたのだろう。復活のイエスとの出会いが、彼らを再びエルサレムへと引き戻した。危険と迫害が予想されるあの場所へ、彼らは帰って行った。彼らは、復活のイエスと出会ったのである。