コリントの教会は分裂、分争に悩んでいた。なぜ、そうなってしまったのか?その原因は、互いに人間の知恵を誇り合い、指導者たちを祭り上げ、争っていたからだ。彼らは自分たち、人間の知恵を誇っていたのだ。というのは、ギリシャ人たちは知恵を探し、尊重する民族だからである。だから、その人間の知恵で「キリストの福音」を理解しようとし、結果、その福音を間違って理解し、分派、分裂、そしてそこから引き起こされた様々な問題が噴出してきたのだった。
だからというか、そのような教会に向けて、パウロは、あえて「優れた言葉や知恵」を用いないで(2:1)、彼らにとって「愚かな言葉」である「十字架につけられたキリスト」を宣べ伝えたのだった。
それはキリストの福音を理解するためには全くもって正しいあり方である。それも、「“霊”と力の証明」によるものであったことだ(2:4)。なぜなら、十字架につけられたキリストこそ神の力、神の救いであることを信じ、受け入れるには、人間の知恵では不可能だからである。
この点がキーポイントである。よく次のような質問される。「二千年前の十字架につけられた人が、なぜ今の私たちにとって救い主なのか、分からない」。この質問は当然だと思う。なぜなら、この十字架の出来事は、人間の知恵では理解できないし、受け入れ難いものだからである。これこそ神の霊によって人の心の内に示されなければ分からないことである。別の言い方をすれば、私たち信じる者には、「神が“霊”によって、そのことを明らかに示してくださいました」(10節)というように、神の霊によらなければ分からないのである。
しかし、コリントの教会の人たちも、頭の中ではそのことを知っていたのかもしれない。ただ、そのことを本当には知っていなかったのである。何とかして、人間の知恵で理解し、知ろうとしたのだが、十字架の出来事、福音は神の霊、霊の力によらなければ理解できなし、受け入れられないのだ。カルヴァンは、聖霊を「内なる教師」と呼んだ。聖霊によって私たちはそのことを教えられるのである。
2章には神の「霊」が多く語られている。それは、神からの霊を受けなければ、神から恵みとして与えられたものを知ることができないからだ、とパウロは理解していたからだ。逆に言うと、「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません」ということだ。自然の人というのは、生まれながらの人であり、神の霊の導きを受けていない人のことである。
聖霊は父なる神、子なる神キリストと同様に人格を持っておられる神。だから、私たちが無視したり、気にかけなかったりするとご臨在してくださらない。心にご臨在を期待し、祈り、求め、待つ時、聖霊は私たちのところへ来てくださる。聖霊こそ、聖書のメッセージ、その中心である十字架につけられたキリストを、「神からの恵み」として悟ることを得させてくださる。その時、私たちも「キリストの思い」(16節)を抱くことができ、神の力による信仰を与えられるのである。