パウロは教会のことを様々な言葉で表現している。ここでは、「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました」と言っている。そして自分を建築家、教会を建物にたとえている。この建物で要となるのはイエス・キリストという土台である。
パウロはここで、「神からいただいた恵みによって……土台を据えた」と言っている。教会は神の恵みによって建てられるということが良く分かる。私たちは自分で何かを始めたとしても、そこには神の恵みがあってのこと。そのことを忘れないで、常に神にご栄光をおかえししたい。
次に問題となるのは、この土台の上にどのような素材を用いて家を建てるのかである。パウロは、たとえとして、金、銀、宝石、木、草、わらの六つをあげている。それは、教会を建てるために働く奉仕者の働きの多様性とその価値を示している。さらに、それぞれの働きが試され、真価を問われる日が来ると言っている。
パウロはその話を何のためにしているのだろうか。問題の核心は次にある。パウロは、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(16節)と、多少の皮肉を込めて教えている。ここで「あなたがた」とは個々人ではなく、教会を指す。その教会は神の霊の住みたもう神殿、聖なるものである、ということ、これこそ決定的に重要なことだ、と言うのである。
今日はペンテコステ。教会の誕生日と言われている。教会の誕生の歴史的出来事(使徒言行録2章参照)からも分かるように、教会は神の霊が住んでいるところだと言うのもうなずける。それは、同時に教会を形作る私たち一人ひとりが全存在を持ってつくる教会だと言っているわけである。多くの宗教が、とかく多額のお金をかけて大神殿を建てる。しかし、本来のキリスト教会は、そのような大神殿を建てる必要を知らない。私たちが神殿だからである。私たちの体と別のところに神の霊が祀られている神殿があるのではない。私たちのからだが宮。もちろん私たちの魂もそう。魂と体を持ってつくっている私たちの全存在が神殿である。
だから、私たちが自分自身を損なうようなことをする時、それは、キリストに罪を犯すことを意味する。唯一の救いであり、この方以外に望みを持つことを知らない方に対する罪を犯す。このことをよくわきまえるということはとても大切なことである。教会の土台はイエス・キリストだということを忘れるな、ということ。教会は、そのように具体的に、ただ一人の救い主である方と共に生き、その方のために生きる。そこに私たちが、まことに深く、親しく主イエス・キリストと一つになって生きる道があるのである。
そのために、いやだからこそ、私たちは、教会に住みたもう神の霊、聖霊に満たされるよう、また生き生きと聖霊が働かれることを祈り求めなければならない。聖霊よ、来たりませ。