いってきます

私の母は、現在、体は健康だが認知症が進んで、私の顔を見ても息子だとは認知できてないようだ。しかし、その母に顔を見せるために、毎年夏に帰省している。せめてもの親孝行と考えているが、会話が思うように成り立たないのは少し寂しい。

 母は大変な心配性で、子どもの頃、日が暮れるのも忘れて遊びほうけて帰ると、「心配するじゃないの」と言って、必ず叱られた。たそがれ時の薄暗い家の前で心配して帰りを待っている母親の姿を見て、飛んで帰ってきたことも度々あった。正直、そんなに心配されると、はた迷惑な気さえした。
 
 中学生にもなると、「いってきます」も「ただいま」も言わないで、黙って家を出入りしていた。すると、ある日、こっぴどくお説教された。

 「どこそこに行く」と言わなくてもいいから、「行ってきます」とはっきり言って出かけなさい。なぜなら、「いってきます」とは「行って」、そして必ず「来ます」すなわち「帰ってくる」という約束をすることだ。だから送り手も「いってらっしゃい」、すなわち「行って来っしゃい(無事に帰ってきなさい)」と願って送り出しているのだ、と言うのである。さらに、帰ってきたら、「ただいま帰りました」と報告するのは当たり前だ、ときた。

 私は、その時、叱られているというより、妙に母親の言うことに感心して、「なるほど」と納得して、それからはきちんと挨拶するようになった。挨拶することで、相手の気持ちを思いやる、また自分の行動に責任を持つことの意味を教えられたのである。

 大きくなって東京で一人暮らしを始めた時、声をかける相手もいないのに、出かける時「いってきます」とつぶやき、帰ってきた時「ただいま」と言っている自分がいた。自分で自分の行動に責任を持つ、それが遠く離れた故郷から仕送りをし、心配しているだろう親へのせめてもの応答であったような気がする。現在、毎年帰省するのもその延長線のことかもしれない。