「神の選びと応答」 民数記16章1-11節

神の立てられた指導者としてイスラエルの民を導いてきたモーセやアロンは、強力なリーダーシップを持っていた。この指導者としてのモーセたちに対して、反発が起きた。強力なリーダーシップを発揮するモーセたちに対して、「あなたたちは分を越えている。共同体全体、彼ら全員が聖なる者であって、主がその中におられるのに、なぜ、あなたたちは主の会衆の上に立とうとするのか。」(3節)と人々は訴えた。共同体全体が、聖なる神の民であって、その上に立つ責任を持った指導者などは必要ないと、言うのである。
 
 モーセとアロンに反逆したのは、レビ人コラに率いられた人々だった。レビ人というのは、神に仕える者として神に選ばれ、神のものとされた人々である。彼ら自身聖なる儀式で立ち働く資格を有する者であった。そのレビ人であるコラが、共同体全員を聖なる者とし、主の会衆の上に立っているという理由でモーセやアロンを訴えるのである。神の選び、神の特別な働きを託されているレビ人が、神の選びや働きの違いを認めないのである。モーセは、コラの思惑の中にある祭司職要求を見抜く(8-11節)。
 
 新約の時代にも、これと同じような紛争がコリントの教会にあった。使徒パウロは、この事柄について、「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。」(第一コリント12:4-6)と説いている。また、「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。」(第一コリント12:21)とも言っている。すべてのものは体の肢体のごとく、神にとってはなくてはならない尊い存在であることを教えている。
 
 どんなところに置かれても、そこに神の選びと召しを覚えて、神に向かって生きる時、神はその人を用いて、御自身の栄光の御業を進められる。私たちにとって大切なのは、自分の能力でもなければ、置かれた境遇でもない。私たちにとって大切なことは、この私が神に選ばれているということである。これこそ、私たちにとって、決して小さいことではない。これを誇り、ここに立って生きることこそ、私たちの最高の人生である。
 
 ダダンとアビラムは、コラと同じように不平を持っていた。それは、指導者としてのモーセはその職務を全うできなかったというものである。つまり、約束の土地に導き入れず、嗣業の土地を与えず、イスラエルの民を荒れ野で死なせるというものだった(13-14節)。ダダンとアブラムは、イスラエルの民が引き起こした背きと不信仰によって約束の地に入れなかったこと(13-14節)の責任を指導者にのみ負わせ、自らを省みようとしない。約束の地への侵入に失敗したイスラエルの民の自暴自棄的な屈折した心理状況がダダンとアビラムの中に見える。
 
 このときモーセは、どのように対処しただろうか。それは神にゆだねた。神の裁きにゆだねた、ということである。皆に香炉を持って、主の御前に出るよう、モーセは命じた。人間は神の定めた秩序を壊し、自分の役割を見失い、自分自身を聖なる者、権威ある者としていく誘惑にさらされている。しかし、真の権威は神ご自身のみにある。会衆の上に君臨していく権威が、人間モーセの中にあったのではない。神の権威の中でその時選び立たされた者が、特別な役割と責任、指導者としての役割と責任を果たすのである。