成熟した信仰

人間というものはつくづく厄介な代物だ。「何事も心がけ次第」「何事も気の持ちよう」なんて言うけれど、それで解決できることは少ない。それもそのはず、人間は心理的に生きているだけではないのだから。

 私たちが心身や生活に関わる問題を抱えたとき、今後どのように、この社会の中で生きるかが課題となる。心理的にはもちろん、社会的、文化的、経済的、生物的な面も含めながら、これからの生き方を探りださねばならない。

 ホームレスや社会的弱者の支援をする時、「見立て(診立て)」が大事だと言われる。当事者にとって、今何が必要なのか、どのような支援をすればいいのかを見極めていくこと。それを見誤ると解決へとはいかない。お金なのか、病気を治すことか、悩みを聞いてあげることか、法的解決が必要か、伴走の必要な援助かなどなど。当事者が考えていることと支援する側との食い違いも多い。しかし、最終的には当事者自身が決めて、問題解決に努めるよう励ます。

 しかし、それだけでは終わらないのが人間。人間はさらに生きる上での意味を求める。意味なくして生きることはできないからである。意味を求める、それは極めて実存的であり、宗教的なことでもある。

 そこに求められるものは成熟した信仰である。信仰は溺れる者はわらをも掴む式の生き方を提供するものであってはならない。だから、ホームレス支援であれ、社会的弱者支援であれ、大震災支援であれ、そこに宗教(信仰)を持ち込まない。信仰は生きるための究極的な意味を与えるものである。狭い、偏見に満ちた宗教的信心ではなく、この現実社会のなかで包括的な態度(究極的には生と死を包括する)を持ち、成熟したライフスタイルを獲得して生きることを提供する信仰でなければならないだろう。成熟した宗教は、信仰を通し安定した生き方を教えるものである。

 『気持ち整理&生き方発見』(賀来周一著 AVACO 2009)9pを一部引用しました。