「マリアの信仰」 ルカによる福音書1章26-38節

マリアは天使ガブリエルから突然、一方的に告げられる。「あなたは神から恵みをいただいた」(1:30)。それは主イエスを宿すというということだった。聖書はそこに「聖霊の働き」があることを伝えている。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(1:34)。そう答えるマリアに、天使ガブリエルは答える。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(35節)。マタイ福音書においても「聖霊によって身ごもっている」「胎の子は聖霊によって宿った」(マタイ1:18,20)と書かれている。

 クリスマスは神の出来事である。神の出来事というのは、突然であり、最初は神から、それも一方的に働きかけられる。聖霊の働きが必ずそこにある。だから、その事柄は私たちにはよく分からない。マリアが戸惑い、受け入れ難かったのは当然であろう。私たちの理性や経験、常識を越えている。人間が考えたり、つくり出した出来事ではなく、神のなさる出来事なのである。

 そして、聖霊はマリアを用いられる。マリアの信仰を通して働かれる。「マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように』」(38節)。これが聖霊によってもたらされたアドベント(待降節)の信仰告白である。そして教会の信仰の模範でもある。これによって、信仰者はキリストを受け取り、そしてキリストを世に伝え、世にもたらす。

 「お言葉どおり成りますように」というだけでなく、マリアは、「わたしは主のはしためです」と告白する。神の選びを肯定し、神が主であり自分は従であると告白する。だから「この身に成りますように」と服従の決意を表わす。漫然と信じているのではなく、恵みによる決定を受け入れ、「この身に成るように」と自分を差し出す。自分の身に引き受ける決意的な服従がある。そこには神への信頼がある。そして御言葉のなる場所として自分の身を捧げる献身がある。冒険がある。

 言うまでもなく、まだ夫のない身で「お言葉どおり、この身に成るように」ということは、非常に危険なこと。苦労の多いこと。イエスはヨセフの子ではなく、「マリアの息子」(マルコ6:3)と呼ばれ、さらには伝承ではローマ兵との間の子といった非難まで生じた。「この身に成りますように」には「信仰の勇気と冒険」が表わされている。それだけ真剣な神への信頼(信仰)があったということである。

 神と人間の出会いは真剣な信頼の冒険を伴っている。この冒険の内容は、神を信頼し自分をゆだねる冒険である。父なる神は独り子である御子を世に遣わされた。御子は人となって世に降り、十字架にまで身を低くされた。聖霊はおとめマリアに降り、私たちに注がれる。クリスマスはこのようにしてご自身を差し出された神を恵みとして受け取ることである。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」。このマリアの決意以前に、まず神がご自身を差し出しておられるのである。クリスマスの信仰には、根本にこの神への信頼(信仰)の冒険がある。勇気がある。「この身に成りますように」。恵みに対して謙虚であり、従順であることは、大胆な勇気を生み出すのである。

 クリスマスは、私たちの人生が無意味ではなく、神の恵みが成る場所とされ、神に仕えるものとされるときでもある。