「聞け、イスラエルよ」 申命記6章1~15節

 4-5節は申命記の核心となる言葉である。主イエスも、旧約聖書に600以上ある戒めの核心として、この戒めを示された(マルコ12:29-30)。「聞く」ということは、人間としての最も大切な行為の一つ。それは単に耳が聞こえることを超えて、人間の生きる姿勢に関わることである。「聞く」ことをしなければ、人は自分の世界に閉じこもってしまう。しかし、「聞く」ときに、ことに主の言葉に「聞く」ときに、人は新しくされる(イザヤ50:4)。「聞け、イスラエルよ」とは、自分の狭い世界に閉ざされているイスラエルの民の耳を開き、解放する主の呼びかけなのである。
 
 イスラエルは何を聞くべきなのか。モーセは二つのことを告げている。「われわれの神、主は唯一の主である」。当時のパレスチナの農耕神バアルは、いたる所の丘で礼拝され、様々な形の像で表されていた。しかし主は、そのように人間の都合に合わせてさまざまに解釈され利用されることを許さない「一つ」の方である。聖書に示された神は、その初めから終りまで首尾一貫した方であり、裏表がなく、ただ一心にイスラエルを愛される方。貧弱な民であったイスラエルをご自分の民として選び(申命記7:6)、荒野で何度背いても見捨てずに愛し抜かれた神なのである。だから、彼らにとって、この主以外に神はいない。

 二つ目は「あなたは心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛さなければならない」。主への全人格をかけた変わらぬ愛が命じられている。しかし人間の愛は罪によってゆがめられている。だから、感情に左右され、自分勝手な愛へと容易に変質していく。今日の箇所の10節以下に暗示されているように、事実イスラエルは約束の地に入ると主を忘れ、神を愛するよりも自分の生活と他の神々を愛した結果、滅亡へと転がり落ちていく。気分屋のイスラエルに対して、主はどだい無理なことを命じているのだろうか。

 7章6-8節によれば、そもそもイスラエルは、どんな民よりも貧弱な民だった。しかし主は一方的な愛によってこの民を選び、ご自分の「宝の民」とされ、奴隷の地から解放して、幾度も民に裏切られながらも約束の地へと導いてくださった。主はイスラエルの弱さ、その愛の移ろいやすいことを重々承知の上で、なぜかそのイスラエルを選び、契約を結んで「私を愛せよ」と命じてくださるのである。だからこの5節の言葉は、イスラエルを拘束するものではなく、主との愛の交わりに留まるようにと招く呼びかけであり、それは恵みの言葉なのである。

 主が選び、愛された民はイスラエルの他にはなく、イスラエルの民にとっての神も主以外にありえない。主とイスラエルはこのような特別な愛の関係で結ばれているのである。ゆえにそれは応答の信仰となる。


平塚バプテスト教会

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