「イエスのまなざしの内に」 ヨハネによる福音書1章35~51節

ここではイエスをめぐる出会いが次々と起こる。バプテスマのヨハネの証言に導かれて、その弟子であった二人がイエスに出会い(41節以下)、その内の一人アンデレがそのことを兄弟ペテロに出会って(41節)伝えつつ、イエスに導き、翌日にはイエスがフィリポに出会い(43節)、そのフィリポがナタナエルに出会って、イエスとのこの出会いを伝えつつ(45節)イエスに導く。

 しかし、よく読んでみると、そのそれぞれの出会いにおいて、イエスご自身の眼差しが一人ひとりに向けられているのを感じ取ることができる(38,42,43,47節)。これらの出会いの真の「導き手」(へブル12:2)はイエスご自身だった。

 そのことを、ペテロとナタナエルの場合がよく示している。イエスはヨハネの子シモンを「見つめ」つつ、あなたは「ケファ(岩)」と呼ばれるであろう、と言われる(42節)。一方、ナタナエルは、フィリポの証言に反発する。聖書のどこにも言及されることのない寒村ナザレから一体どんな人物が出てくるのかと(45-46節)。しかし、イエスはこのナタナエルをもあらかじめ「見て」おられる。ナタナエルはあなたは一体「どこから」自分のことを知ったのかと問い、イエスは答えられる。「わたしは、あなたが……いちじくの木の下にいるのを見た」。旧約聖書によれば、いちじくの木やぶどうの木の下に座る(住む)というのは、メシアによって治められるであろう平和な時代の中での生活をしめす表現である。だとすると、イエスはこう約束しておられるのではないだろうか。「君がわたしのことを見聞きする以前に、私は君が、いちじくの木の下で、メシアによる平和の国のただなかで、守られ祝福されているのをすでに見た」と。

 このように、ペテロもナタナエルもいまだいかなる働き、奉仕も行わない以前に、何の資格も持たぬままに、イエスによって、メシアの将来の、すべての人のために、平和の国を証しする働きのために既に選ばれていたのである。

 こうして、最初の5人の弟子たちはイエスの出会うやいなや、その弟子となる。おそらく、自分の言っていることが、本当のところ何を意味しているのか、よくは分からないまま、しかし、たまらずに告白するのである。「私たちはメシアに出会った」(41節)。「あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」(49節)と。イエスは彼らに、そして私たちに、問われる。「君たちは何を探しているのか」(38節)と。それに対して彼らはその時理解できた限りで答えたのである。「あなたを、私は探していたのです」と。これはイエスとの出会いの始まりにすぎない。しかし、その瞬間から、彼らはこの方に捕らえられるのである。それは、彼らがこの方を十分に理解したからではなく、この方のまなざしのうちに彼ら一人一人がすでにいるからである。

 彼らは、ただイエスの「とどまって」おられるところに共に「とどまる」だけでよいのである。そうすれば「見るであろう」(分かるであろう)(39節)とイエスご自身によって約束されるのである。