恐れと愛

 2001年9月11日の米国本土における同時多発テロ事件以降、テロに対する恐怖が米国人の心だけでなく、世界中の多くの人々の心を支配している。イラクに大量破壊兵器があるかもしれない、それがテロリストの手に渡るかもしれないという恐れが戦争の引き金になったと言われる。

  今また、シリアの内戦において化学兵器が使用されたとして、アメリカ軍がいきなりミサイル攻撃をした。同時に米軍は核・ミサイル開発を進める北朝鮮に空母艦隊を派遣している。

  私たちが何かをする時、その背後にある動機は多くの場合、自分が誰かに傷つけられるのではないかという「恐れ」から自分の身を守ろうとして行動していることが多い。自己防衛本能であろうが、他の何ものにもまして自分自身を最優先させているからである。我が身かわいさである。豊洲市場問題や森友学園問題を見ても、政治家や官僚たちは我が身に責任が及ぶのを「恐れ」てうそを言い、ごまかし、記憶にないと言う。

  一方、「愛」はそれが向けられる相手にとっての最善を願う。自分より他者を優先させる。同じ行動をしていても、その背後に「恐れ」がある場合と「愛」がある場合とでは、ずいぶん大きな差がある。「恐れ」は人を呪縛するが、「愛」は相手に選択の自由を与える。「恐れ」は自己防衛のためのよろいと剣を準備するが、「愛」は自分が傷つくことさえいとわない。ありのままの弱い姿であっても相手と向き合うことをさせてくれる。

  私自身、自分の行動を見るとき、多くの場合「恐れ」によって動かされており、「愛」によって動機付けられていることの少なさを痛感する。私たちは、各々の行動が「恐れ」ではなく「愛」によって動機付けられるものでありたい。平和は恐れによって作り出されるものではなく、愛によって作り出されるものだと信じているからである。

  「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである」(第一ヨハネ4:18)。