「祈りの中の沈黙」詩篇62篇2-9節


  「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。(口語訳)わが魂はもだして、ただ神を待つ」。この沈黙には二つの内容が考えられる。
  
  一つ目、この沈黙は、神への信頼に満ちている。神が語って下さるのを待っている。どんなに動揺しても、自分が「いたく動かされる」ことはないと知るところから生まれる沈黙である。そして「御前に心を注ぎ出せ」(9節)とあるように、この沈黙は心を注ぎ出す沈黙である。生活の中で、自分の心の悩み、わだかまり、苦しみを神の前にさらけ出していくことである。しかし、どんなに行き詰まった絶体絶命の状態であっても、それを神の前に注ぎ出すということは、本当に神を信頼しなければできないことである。そして、待つことに集中する。この沈黙は神に向かって心を注いでいる。心を開いている。心のカギを神のみ腕にゆだねるような心である。「あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存知なのである」(マタイ6:8)との主の約束を信じきっているところから生まれる沈黙である。

  もう一つは、神と出会う沈黙である。私たちは祈りの言葉が中断し、真実の意味で黙ってしまうことがある。言葉にならない、祈りにもならない、ぎりぎりのところでの沈黙。それは、私たちの側から言えば、むなしくなること、空っぽになることである。しかし実は、それは空しいどころか、充実した沈黙である。なぜなら、このところで私たちは、自分の罪を、自分がいかなるものであるかを深く知り、そしてそこでこそ、私たちは神と出会い、救いを知るからである。

  森有正が「決してある神学的な教条や教典やまた思想体系の中で人間は神様に会うことは出来ない。人間にはいかなる場合でも隠そうとするあるいは隠された一隅はあります。……人にも言えず親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、また恥じている、そこでしか人間は神様に会うことは出来ない」と言っている、「そこで」の沈黙。それは、人間の言葉が満たすのではなく、神の言葉に満たされていく沈黙となっていく。そしてそれは、さらに神にすべてを明け渡していく沈黙となっていく。