「共に今を生きる」 ガラテラ人への手紙2:11~21

アンティオキアの教会は実に様々な人々の集まりであった。異なる文化と風俗、習慣や生活経験。異なる々が、違いや壁を越えて一つにされていた。「皆、キリスト・イエスにおいて一つ」(ガラテヤ3:28)であった。そのしるしが一緒の食卓につくことであった。それは皆にとって至福の時であった。

 ところが、その中に特定の人種主義や民族主義を持ち込み、優位性を持って主張する者たちが現れた。お互いの「差異」は「差別」と変わり、共同の食卓そのものが破壊された。パウロが指摘したアンティオキア教会の問題性はそれであった。だから、すぐれて現代の問題でもある。ケファ(ペテロ)の変節はパウロにとって「苦い失望」であった。しかし、パウロはそれをも越えて進んだ。私たちもまた、同じ苦さに耐えつつ、繰り返し、あの「一緒」に帰っていく努力が求められている。

 ケファの変節もわからないわけではないが、しかし教会(共同体)から見ればかえってマイナスである。いざとなると心変わりする。臆病になる。周囲を見回し始める。人の顔色や声を気にする……。要するに神を見ないで人を見る。ことが福音の分かれ目、教会の存立に関わるような場合、ケファのようであっては困る。そこをパウロは問題とした。人をかばうに急で、福音が曲げられ、教会が病んでゆくのを見過ごしてはいけない。キリストの福音が立てられていかなければならない。キリストのみを見上げていくことが肝要であることを教えられる。

 「私は神に対して生きるために、律法に対しては律法に死んだ」(19節)とパウロが言っているのと同じく、私たちもバプテスマを受けた時に、ひとたび死んだ。十字架は、神無しの人生を当然としてきた古い自分の死である。罪人の私が十字架につけられたことは、だから特定の時の一点であるには違いない。だが、その事実と恵みとは、時の流れとともにとうてい過去とはなり得ないものがある。だからパウロは続けて「(岩波訳)十字架につけられてしまっている(現在完了形)」(19節)と言う。あの日あの時だけといった過去のことではない。今も十字架につけられている。

 だから、その十字架抜きで今日を考えることができない。十字架を遠い昔へ追いやって、それとは縁のない現在を生きるというのでもない。今ここで、十字架を負う。忘れもしなければ避けもしない。逃げもしなければ離れもしない。かけがいのない過去は、かけがいのない今として生きている。それ故に、「私はキリストと共に十字架につけられています」という表明が、パウロのみならず私における今現在の最高の信仰告白となるのである。そして、その信仰に生き、そういう今を生きる。