今朝も「みこころをなさせたまえ」と祈る。「みこころをなさせたまえ」と祈る時、私たちは「この日までに」という期日を定めて祈ったりはしない。主の祈りを祈り、私たちが神のみこころが成就することを何よりも願うとき、直面させられる問題の一つは「待つ」という姿勢を保てるかどうかということだ。この「待つ」ことこそ、「みこころをなさせたまえ」という主の祈りの心と言っていい。
最近の日本人は待つことが苦手。私たちは自分たちの求めているものは、「今すぐに」手に入るように求めたがる。スーパーのレジでも、自分の並んだ列の前の人がゆっくりしていると、「あっ、ここを選んで損した」と思ってしまう。ほんの数十秒にもかかわらず待てない。聖書のペテロの手紙第二3章8節には、「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです」と記されている。この聖書の言葉から、神の時は人間の思いをはるかに超えていることを教えられる。私たちは、必要であるならば神さまはすぐに応えてくださるということを信じる一方で、それが相応しくないならば、その願いはすぐにかなえられないこともあると「信じる」ことが求められる。
私たちは「みこころが成りますように」と祈りながら、神がなされる最良の時を待つ。もしかすると、それは自分が生きているときではないかもしれないが、忍耐をしながら待つのである。神のみこころを「待つ」者にとって、「忍耐」こそ、最も大切なこと。「待つ」祈りとは、私たちの「忍耐」を成長させる祈りとなるのである。また、「待つ」というのは一見、消極的に思えるが決してそうではない。信仰の戦いでもあるのだ。
「忍耐深く祈る」、このことは、私たちが神さまを思い通りにしようとする罪深い誘惑から守ってくれることとなる。「みこころが成りますように」という「待つ」祈りは、私たちの信仰の力を鍛える。「みこころがなりますように」と祈る時に、「私たちは、神さまの最良の時を待つことができる信仰者となれますように」ということをも祈っているのである。聖書において神の「みこころ」という言葉が出てくる箇所の多くの文脈において、読む者たちに問われているのは「信仰」と「忍耐」。
時に神さまの「みこころ」がわかるには、「心の平安があることだ」と言われることがある。しかし、ここには「心の平安」という言葉の罠がある。なぜならば示されたみこころを受け取るのに、平安を失うようなことは度々起こるからである。
イエス・キリストの母マリアは、十代の少女であったとき、天使から「あなたはメシアを身ごもる」と伝えられた。その時、マリアは「あなたのおことばどおりこの身になりますように」と答えた。一見、美しいクリスマスの記事のようにも見えるが、こう答えるために、どれほどの信仰と忍耐が必要であっただろうか。実際、「神さまの子どもを妊娠できるの?やったー!」とはならなかっただろう。婚約者のヨセフの顔がちらついたのではないだろうか。「もしかすると、自分は婚約者から捨てられるかもしれない」という人生の危機に置かれたのだ。さらにお腹が大きくなる間、多くの人の目にさらされて、誤解や非難の中を生きることにもなった。
事実、イエスさまが宣教を始められるまでの三十年間は、マリアは自分の若い頃に起こった出来事の意味ははっきりとわからないままだった。しかしマリアは、イエスさまが福音宣教をなさる姿を見て、「やっぱり、あの三十年前の神の使いの『メシアを産む』という言葉は本当だった」と受け取ることができたのである。マリアが「みこころがこの身になりますように」と、何も分からないままに受け取って、祈った祈りが実現していくのを見るまでには、三十年以上の年月が必要であった。
イエスさまの十字架も、また神の御心ではあったが、イエスさまご自身が受け止めるには、血の汗を流されるほどの苦しみがあったことも忘れることはできない。
みこころが実現していく時、私たちには忍耐が求められるのである。忍耐の民として生きること、今週も「みこころをなさせたまえ」と祈りながら、主からいただく忍耐をもって歩みたいと思う。