いのちは財産?

20年以上前に読んだ本だが、演劇の演出家、竹内敏晴氏がその本の中で、朝の電車の中での出来事を書いている。少し長いが引用する。

 ある朝、私が乗った電車がのろのろと止まってしまいました。「ただ今、初台駅付近でとび込み自殺がありまして……」車内が一瞬シーンとしました。「ご迷惑をおかけしております。まだ復旧の見込みは立っておりませんので、今しばらくそのままお待ち願います」続いて、冷たい、語尾のハッキリした、明晰と言ってもいい語り口で、「まことにメイワクなことでございます。みずからのいのちをムダになさったかたがありまして、電車がストップしております……」いかにも、完璧に遂行している事務をメチャメチャにしやがって、まったく、と舌打ちせんばかり。私はびっくりして思わず顔を上げました。自殺と聞けば、なにはともあれ、そこまで追いつめられた死者への、ある同情というか尊重というか、そういうものが胸を占めるのがあたりまえのように思いこんでいたのでしょう。「……ムダになさったかたか」と小さな含み声が聞こえました。(中略)十数分たって、どうやら電車は動き出すことになりました。そのときまた車内放送です。「事故処理が終わりました。全線開通いたします」やはり冷たいが、晴れ晴れした声です。一息おいて、声が変わりました。「なお、おいのちはなんと申しましても、第一の財産です。ムダにはしたくないものでございます。……次は新宿。終着駅新宿です……」私はあっけにとられてあたりを見回した。(後略)

 一人の人が死んだ。それが「事故」そして「処理」とは。それにもまして、「おいのちは第一の財産」。「財産」ならば売買できるし、値段もつけられるが、「いのち」って、そんなものか?しかし、私たちは「からだが資本だから」とよく言う。資本ならば売買できる。「からだ」って、そんなもの?私たちは知らず知らずのうちに資本主義(貨幣価値主義)に染まっていないだろうか。「いのち」への感性を曇らせないようしたい。