「心に響く鈴の音」 使徒言行録16章6~10節

星野富広さんの花の詩画集「鈴の鳴る道」の中に次のような文章がある。
 「車椅子に乗るようになってから12年が過ぎた。その間、道のでこぼこが良いと思ったことは一度もない。ほんとうは曲がりくねった草の生えた土の道が好きなのだけれど、脳味噌までひっくり返るような振動には、お手上げである。 (中略) ところが、この間から、そういった道のでこぼこを通る時に、ひとつの楽しみが出てきた。ある人から小さな鈴をもらい、私はそれを車椅子にぶら下げた。手を振って音を出すことができないから、せめて、いつも見える所にぶらさげて、銀色の美しい鈴が揺れるのを、見ているだけでも良いと思ったからである。

 道路を、走っていたら、例のごとく小さなでこぼこがあり、私は電動車椅子のレバーを慎重に動かしながら、そこを、通り抜けようとした。その時、車椅子につけた鈴が「チリン」と鳴ったのである。心に染み入るような澄んだ音色だった。「いい音だなぁ」。私はもう一度その音が聞きたくて、引き返して、でこぼこの上に乗ってみた。「チリーン」「チリーン」。小さい音だったけれど、本当に良い音だった。その日から道のでこぼこを通るのが楽しみとなったのである。

 長い間、私は道のでこぼこや小石を、なるべく避けて、通ってきた。そしていつの間にか、道にそういったものがあると思っただけで、暗い気持ちを持つようになっていた。しかし小さな鈴が「チリーン」と鳴る、たったそれだけのことが、私の気持ちを、とてもなごやかにしてくれるようになったのである。鈴の音を聞きながら、私は思った。“人も皆、この鈴のようなものを、心の中に、授かっているのではないだろうか” その鈴は整えられた平らな道を歩いていたのでは、鳴ることがなく、人生のでこぼこ道にさしかかった時、揺れて鳴る鈴である。

 美しく鳴らし続ける人もいるだろうし、閉ざした心の奥に押さえ込んでしまっている人もいるだろう。私の心の中にも、小さな鈴があると思う。その鈴が、澄んだ音色で歌い、キラキラと輝くような毎日が送れたらと思う。私の行く先にある道のでこぼこを、なるべく迂回せずに進もうと思う」。    
 以上です。人生において、避けられないでこぼこ道、同じ歩くなら、きれいな鈴の音を聞きながら、楽しい豊かな気持ちで歩みたい、そういった星野さんの思いがつづられている。私たちはどうだろうか。やはり、最初の星野さんと同じように、でこぼこ道、曲がりくねった道、障害物のある厄介な道は避けたいと思うだろう。しかし、星野さんは、でこぼこ道でこそ、きれいな鈴の音があるという。それは心の中にあるという。

 また、俳人の種田山頭火の句に次のような句がある。「まっすぐな道でさみしい」。含蓄のある一句だ。私たちは、曲がりくねっている道より、まっすぐな道を選ぶ。曲がっているとすぐ伸ばしたくなる。トンネルを掘る。曲がりくねった人生の歩みより、効率のいい無駄のない人生の歩みをどこか望んでいる。それを山頭火は「まっすぐな道はさみしい」と言うのである。人生に無駄、遊びといって否定的に言われるが、人生に無駄とか遊びは必要で、人生を豊かにする。

 さて、ここでパウロは、しばしば聖霊に禁止され、行く手をさえぎられている。パウロはここで北に、西にさまよい歩いている。そこではまるで計画もなく、あてもなく歩いているかに見える。しかし、彼はただ足の赴くままに、のんきに旅を続けているのではない。彼は妨げられているのだ。それは神の「否!」にほかならない。しばしばさまようことさえ神の御手の中にあることを、私たちは忘れてはいけない。神が扉を開かないところでは、いかなる人間の熱心も、いかなる賢い知恵も、力も役に立たない。箴言の21:30-31に「主に向かっては、知恵も悟りも、計りごとも何の役にも立たない。戦いの日のために馬を備える、しかし、勝利は主による」とある。

 パウロは、途上で何度も問うたことだろう、「主よ、一体いつこのまわり道が、一つの道になるのですか。いつこのあてどのない漂白の旅が、ひとつの確かな方向に変えられるのですか」と。けれども、このよく語るパウロは、聞くことを忘れなかった。その聞くことからのみ、真の服従が出てきて、ついに人は慰めに満ちた確信に到達するからである。詩編の119:45に「私は、あなたのさとしを求めたので、自由に歩むことができます」とある。

 この夜、パウロは幻を見た。マケドニア人の叫び「マケドニア州に渡って来て、私たちを助けてください」。それに応えて、パウロたちはマケドニア州に行く。「来て、私たちを助けてください」との声を聞いた時、彼らは悟った。「神が私たちをお招きになったのだ」と。「来て私たちを助けてください」との声を聞き、それに従う時のみ、私たちは「神が私たちをお招きになったのだ」という、もう一つの声を聞くことが出来るのである。私たちが妨げられ、邪魔され、行く手をふさがれた時であっても、御霊の助けに素直に従うなら、この声を聞くのである。星野さんが言う「鈴の音」を聴くのである。でこぼこ道の時こそ、鈴の音を聞くのである。困難な時、試練の時、苦しい時にこそ神の声を聞くのである。だから私たちはそのような時にあっても、落ち着いて、勇気をもって、いや、神のご計画に期待する喜びをもって立ち向かうことができるのである。人間の計画が崩れる時、神の計画がなるのである。箴言19:21に「人には多くの計画がある、しかし神の御旨のみ、よく立つ」とある。