「いのちを生きる」 創世記2章7節

 座間事件をはじめ、最近、自ら命を絶つ人々が多いというニュースに心が痛む。ある神学者が、「自殺を試みようとしている人に、あなたは生きなければならないと言っても意味はない。もし自殺を思い止まらせようとするなら、あなたは生きることが許されていると言うべきである」と書いている。生きることが許されていることを知るのは、「神はご自分にかたどって人を創造された」(創世記1:27)との言葉を自分のこととして聞く時である。

 もう10年ぐらい前のことだが、ある厚生労働大臣が「女性は子どもを産む機械だ」と発言をし、マスコミをはじめ各方面から批判を受けた。この大臣は「15~50歳の女性の数は決まっている。産む機械、装置の数は決まっているから、あとは一人頭でがんばってもらうしかない」という発言を繰り返した。

 この発言を聞いた時、二つのことを批判的に受け取った。一つは、女性を機械だと考えるような、女性の人格を無視した発言だ。機械なら、生まれる子どもは製品かと言いたくなる。二つ目は、少子化の問題を女性だけに押し付けるという認識不足からでた発言だということ。いうまでもなく少子化の問題は、経済的な問題や家庭環境の変化、子育て支援の問題、それに働き方の問題など、様々なことが複雑に絡み合っていて、女性だけの問題ではなく、社会全体で考えていかなくてはならないことである。

 当然、この厚生労働大臣の発言をめぐって多くの反論、批判がなされた。そして、その多くが女性が結婚する、しないも、子どもを産む、産まないのもそれは本人の自由だということだった。確かにその自由は保障されなければならない。しかし、どうもそれだけでは腑に落ちないものがある。確かに「子どもを産む、産まないは本人の自由」だが、そんなふうに考えるだけでよいのだろうかとも思う。それは言い換えると、産む側の視点だけで「いのち」の問題を考えていいのかということである。それは人間の傲慢ではないか。産む側の自由があるなら、産まれる側も自由があっていいはず。生まれた側から言うと、本人の自由は無い。では、「いのち」そのものを持っている本人自身にその自由が無いという、この産む、生まれるという神秘的といってもいいほどの出来事をどう考えていったらよいのだろうか。

 子どもを産むということは、一つの「いのち」を産み出すことである。この「いのち」とは何だということをもう一度考えてみる必要がある。違う視点から見ることができないか。昔から、生まれた子どもを「子宝」という言い方をする。また、「子どもは天からの授かりもの」とも言う。親のものであって、親のものではない。自分のものであって、自分のだけのものではない。そこに人間を超えたものによる、人間が手出しできない、してはいけない領域での事柄と考える見方がある。また、宝と表現するほどに大事に考えたことが伺える。よもや機械から生まれた製品などという発想などどこにもない。

 はじめに紹介した、創世記1章27節に「神は御自分にかたどって人を創造された」とあるが、人間が神にかたどって造られた存在であるとは、いろいろな意味に解釈されてきた。人は内に神の痕跡を残す存在である。神の愛に責任をもって応答できる存在である、など。しかし、この言葉を一般化して理解するのではなく、自分のこととして聞く時には、また新たな思いを持つのである。私の存在は尊いのであり、私は他に比べるものが無いのであり、私は私に責任を持つ存在であることをひしひしと感じるのである。
 
 私たちは生きている、と同時に生かされているのである。このことは先ほども言った自分の命は自分のものであって、自分のものではない、ということと同じである。だから、このいのちを大切に精一杯生きること、また同時に他の人のいのちをも尊重し大切にすること。そのような生き方を神は喜ばれる。