「新しい契約」 エレミヤ書36章1-10節

 ここで記されている一連の出来事の核心は、預言者エレミヤを通して主なる神が長年にわたって語られてきたことを「巻物に書き記し」て、それが「読み上げ」られ、一度ならず繰り返し神の言葉を無視してきた人々に、さらに「繰り返し語りかけ」、なんとかして、それこそ最後の期待をかけて、彼らが「悪の道から立ち帰る」ことを願ってなされている、神の側からの悲しいまでにひたむきな働きかけである。

 神は、なんと忍耐強く、憐れみ深い方だろう。とうの昔に「もう我慢ならない。堪忍袋の緒が切れた」と言って、怒りと憤りを爆発させても全くおかしくないのに、「あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい」(2節)、「この巻物から主の言葉を読み、……人々に聞かせなさい」(6節)と言って、裁きと滅ぼしを思いとどまる一方、なお、期待を持って働きかけておられる。このことはユダヤ民族のことだと言って聞き流すことはできない。新約聖書では有名な放蕩息子の話があるが、子に対する親の思いがそれに近いと思う。もう見放してしまいなさい、と周りから言われても、「私の子どもだから、私はこの子の親だから」という思いでかばう親心。「なんでそこまでするの」と問われても理由なんてない。「私はあの子の親だから」。

 そうまでして「私は彼らの罪と咎を赦す」(36:3)と言い続け、そのことが起こることを望み続けて下さる神。激しく叱責し、厳しい裁きを語る神は実は「赦す」ことを望んでやまない神であり、そのために考えられないほどの犠牲を自ら払う覚悟のある神なのだ。

 さらにエレミヤは預言者として、我々が真に待望しなければならないものを指し示している。託され、人の口を通して語られ、さらには巻物に書き記され、読み上げられる神の言葉ではなお足りずに、「肉となって、私たちの間に宿られた」言葉、その中に「恵みと真理とに満ちてい」る神の言葉(ヨハネ1:14)こそをこの世は救われるために必要としているということをエレミヤは指し示す。

 それは、「エレミヤ書で最も重要な章句の一つ」であり「旧約の預言書の中で最も深い洞察の一つ」といわれるエレミヤ書31章31-34節。それをエレミヤは主からの託宣として告げている。そこで言われている「新しい契約」、これはかつての出エジプトの途上シナイ山で結ばれ、結果的には神の民によって破られたあの契約とは違い、「彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」のである。人間の背反によって石の板のように壊され、無効にされることはない。「私は彼らの神となり、彼らは私の民となる」と無条件に言われている新しい契約である。神の側からの一方的な宣言である。

 「そのとき」何が起こるのか。「人々は隣人同士、兄弟同士、『主を知れ』と言って教えることはない」。なぜなら「彼らはすべて、小さい者も大きい者も私を知るからである」(31:34)。「知る」ということは、「自発的に神を愛し、神に服従するようになる」ことだ。その上でこう宣言されている。「私は彼らの悪を赦し、再び彼らの罪を心に留めることはない」(31:34)。

 ここに神と人間の新しい関係ができることをエレミヤが全身全霊をもって告げている。その預言が実現したことの出来事がイエス・キリストの誕生の出来事である、と言われている。エレミヤは、人間的に言えば、神の苦難の僕、あるいはメシアのような生涯を送ったといえるかもしれない。しかし、彼自身は断固として言うだろう。真の祭司、仲介者、自ら神の言葉であるお方の到来によってのみ、神の救いはもたらされるのだと言うことを。真の祭司、仲介者、自ら神の言葉であるお方、イエス・キリストの誕生をお祝いするクリスマスを神の計り知れない愛の恵みとして覚えつつ、感謝して待ち望みましょう。