「そこで私に会う」 マタイによる福音書28章1~10節

 暗黒を引き裂くように朝の光が射し込む時、すべてが変えられるように、週の初めの朝早く墓に急いだ女性たちに、「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」(5-6節)という言葉が告げられる。新しい時が始まったのだ。これが復活の出来事。復活の出来事は天使によって告げられた。それは神からの宣言である。だから、それを私たちが証明したり理解しようとしてもできるものではない。私たちはただそれを聞き、承認して、受け入れるだけである。

 

 2節に「すると、大きな地震が起こった」とある。マグダラのマリヤたちは、誰が墓の石をのけてくれるだろうかと案じながら、イエスの遺体に香料を塗るために墓の所へ来たのだった。その時、石は地震によって転がされた。神は信じる者に対して、天を動かし、地を震わせて道を備えてくださるということをこのところから知ることができる。私たちにはもちろん天を動かすことも地を震わせることもできない。しかし神は、信仰生活をしていく上で妨げとなる石を取り去ってくださるのである。私たちは、何かをしようと思うのだが、あの石があるからできないと言うことが多い。しかし、神がおられる世界なら、心配することはない。私たちは人間の限界の中で物事を考えようとするが、私たちの信仰は、神の支配される世界の中でなされることであることを忘れてはいけない。

 

 10節に「ガリラヤに行け、そこで私に会えるであろう」とある。女性たちに語られた主イエスの言葉である。イエスは弟子たちにガリラヤに行けと言われた。ガリラヤは、弟子たちにとって故郷である。だからガリラヤに帰れというべきではないか。それをなぜ「帰れ」と言わずに「行け」と言われたのか。それはイエスの復活に出会い、新しく使命を与えられた者には、もはや帰る世界はなく、「行く」世界だけであるということではないだろうか。

 

 そしてガリラヤに行った弟子たちは、そこで待っていて下さった主イエスにお会いする。16,17節に「イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた」とある。よみがえられた主イエスにお会いしながら、主イエスを礼拝しながら、弟子たちの中に疑いがあったのだ。福音書はそれを隠さず書く。しかし、その疑いを抱いた者たちが排除されたわけではない。その弟子たちに主イエスが近づかれるのである。およそすべての福音書の記述によれば、よみがえられた主イエスに弟子たちの方から近づいた記事はない。すべて主イエスの方から近づいてくださるのである。当惑する弟子たち、疑っている弟子たちに、主が近づいて声をかけてくださるのである。そしてご自身の復活の事実を明らかにしてくださる。このようにして確かな復活の信仰に根ざす教会の歴史が始まった。キリストの教会は、この主イエスの方から近づいてこられることの出来事を宣べ伝えてきた。私たちのところにも主が近づいて来て、疑いを取り去ってくださったのである。

 

 では、私たちにとってガリラヤとはどこか、ガリラヤへ行くとはどういうことだろうか。それは、私たちが復活の主に出会い、礼拝する場である。そして、その礼拝の場からすべての民へと遣わされていくのである。私たちはこの復活の主によって、遣わされる。そして復活された主は、いつも私たちと共にいてくださる。恐れず、喜んで主を証していこう。

 

平塚バプテスト教会

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