「良い知らせの手紙」 マルコによる福音書 1章1-15節

マルコ福音書1章1節~15節は、マルコ福音書全体の序文にあたる。ここには「福音」という言葉が繰り返し出てくる。「福音」という言葉はもう十分に日本語として通用するようになった。辞書を引くと最初に、心配事や悩みを解決するような、うれしい知らせ、とある。二番目には、キリスト教で、キリストによって、救いようもない深い罪を持つ人間が救われるのだ、という知らせ、とある。簡潔によく書かれている。

 1節に「神の子イエス・キリストの福音の初め」とあり、15節には「福音を信じなさい」と繰り返し書かれている。福音書は、まさにその「福音」を伝えようとしている。福音書はイエスの伝記というよりは、むしろ私たちへのイエス・キリストという良い知らせの手紙だということができる。

 「福音」という言葉にはさまれた2節~13節には何が書かれているのか。2節には、旧約聖書の預言イザヤ書に証しされている者として、洗礼者ヨハネが登場する。ヨハネは4節にあるように、人々に、主の道を備えるようにと悔い改めのバプテスマを宣べ伝える。7~8節を見ると、ヨハネは救い主ではなく、自分よりも優れた方を指し示す者として登場している。

 9節から主語がヨハネから主イエスに代わる。バプテスマを受けられたイエスに向かって天からの声が与えられる。「あなたはわたしの愛する子」。荒れ野で叫ぶヨハネの声と、天からの神の声という二つの証言によって、イエスの1節に書いてある「神の子」であることが確かめられる。

 荒れ野の試みを経て、ヨハネの時の終わりと共に、イエスの時が始まる(14節)。そのイエスの時の始まりは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というもの。こうして、この段落全体が、主イエス・キリストによる福音の始まりを告げている。

 さて、さきほど福音書はイエスの伝記というよりは、むしろ私たちへのイエス・キリストという良い知らせの手紙だということができる、と言った。福音書にはひとつには、イエスが話した言葉が書かれている。イエス語録という。二つ目は、ただ単にイエスが語った言葉ということにとどまらず、イエスという人物、行いと言葉のすべて、いうならばイエス自身のすべて、生きざますべてが書かれている。

 例えば、ある人があなたに「私はあなたが大好きです」と言ったとする。まず第一にその言葉はあなたにとっての福音、うれしいだろう。良い知らせであるに違いない。でも、それ以上にそのように語りかけてくれるその人の存在こそがあなたにとって福音、良い知らせではないだろうか。嫌いな人から、同じ「私はあなたが大好きです」と言われても、うれしくはない。それは福音、良い知らせにはならない。怒られるのも同じ。信頼している人から「何やってんだ」と言われても腹は立たない。むしろ、「ほんとだ、私、何やってんだろう」と反省し、気を取り直してしっかりやろうと思うだろう。しかし、信頼できない人から言われると、「あんたには言われたくない」でおしまい。信頼というのは本当に大切だし、信頼をつくり出すには言葉だけではなく、その人の生きざまそのものが大きくかかわってくることが分かる。そういう観点から、この福音書を読んでみてほしい。イエスの言葉となされたこと、イエスの生涯、生きざまを。イエスとはどういう人であったか、人となりをしっかりと読み取ってほしい。そしてその主イエスと出会っていただきたい。

 イエスと出会うとどうなるか。それまでの自分が打ち壊されて、やって来た新しいものにとらえられてしまう。方向転換が起こる。それが改心、悔い改め。主イエスの第一声に「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」とあるが、そこには、イエスの言葉とイエス自身の存在がある。そのイエスという人物がどういうものであるかをこの福音書の冒頭1節に「神の子イエス・キリストの……」と告白されている。「神の子」で、「人の子」イエス、そして「キリスト(救い主)」とあるから、救い主であるといっているわけである。マルコはそのことをこの福音書全体で書き記そうとしたのだ。

 福音書を読むということは、そのイエス・キリストに出会うことである。福音書を通してイエス・キリストの言葉に出会うこと。福音書を通してイエス・キリストという人物と出会うこと。読んでいくとあなたにとってどうしても引っかかる言葉がある。その言葉を発するイエスという人物が気にかかる、不思議に思える。簡単に理解できないかもしれない。グサッと来ることもあるだろう。いろいろな反応があると思う。そのようにイエス・キリストという存在は私たちを巻き込んでいく。神の国、それは神の支配のことだが、「時は満ち、神の国は近づいた」とあるように、イエス・キリストの到来と共に始まった神の国は、近づきつつあるもの、私たちに迫ってくるのである。私たちを巻き込んでいくのである。その迫りの中で、必ず決断が起こされる。その決断が悔い改めへと導いてくれる。方向転換へと導いてくれるのである。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。私たちに求められているのは、そのキリスト信じることだけである。そこからすべてが始まる。