「神の愛の奥深さ」 コリントの信徒への手紙一4章3-5節

常に私たちが恐れているのは他人の目であり裁きである。人はどう思うだろうか。人はどう言うだろうか。批判されはしないだろうか。結局、人間がいつも頭を悩ませているのはそのことである。人の一生は人からの裁き、評価との闘いだといってもいいほどである。気を使って、闘って、疲れ果ててしまうのである。 

 使徒パウロはきっぱりとこう言う。自分は人から裁かれようと、人間の法廷に立たされようと何ら気にしない、と。人に何と言われようと、自分には自信がある、というのではない。パウロは言う。自分で自分を裁くこともしない、と。何もやましいことはないけれども、それで自分が正しいわけではない、と。いわゆる、自分を客観的に相対的に見ているのである。自分を絶対化しない。すべてを超越しておられる絶対者なる神の存在を信じる信仰がそのような自己を相対的に見ることを可能にさせるのである。そうすると、だいぶ肩の荷がおり、力が抜けてきて、楽になるだろう。

 箴言に「人間の道は自分の目に正しく見える。主は心の中を測られる」(21:2)という一節がある。これは信仰による認識がどういうものであるかを語っている。人間の目には自分の行動は正しく見えるのである。冷静に、十分に考えてみて、自分の間違えていることがよく分かった、ということにはならない。考えれば考えるほど、言い訳が出てくる。弁解が出てくる。自分を正当化することになる。自分可愛さ、自己保身、これは私たち人間の本性で、言うならばどうにもならないところで、聖書的に言うならばそれが罪。
   
 だからパウロは、自ら省みてやましいことがないとしても、それで義とされているわけではないという。4節で「わたしを裁くのは主なのです」と言う。自分を裁くのは人ではない、自分でもない、主イエスだという。主に裁かれる、主に裁いていただく、それが信仰の確信であり、拠り所である。そこから導かれるのが、だから主に委ねるという信仰。

 しかし、思いがけないことがこれに続いている。「その時、おのおのは神からおほめにあずかります」(5節)。その時、おのおのは神から厳しい裁きを受けるだろう、というのであればよくわかる。けれども、そうではなくて、「おほめにあずかる」というのである。一方、人間は人の罪悪を見出した時、まるでその人間の正体をつかんだかのように思う。醜い部分を見つけたとき、その人間の本質を知ったかのように興奮する。

 聖書のメッセージは、次のように言う。主が人間の隠された闇の秘密を知るということは、そういうことではない。人間の醜さ、罪悪のその奥に隠されている良いものを主は見られる。人間の汚濁のその向こうにあるわずかな良い志を見落とされはしない。そこのところで評価してくださる、というのである。

 むろん、神が私たちを総体として見れば、とても正しいとは言えないだろう。捨てられるべき罪人にすぎない。しかし、主イエスはそのような人間を贖ってくださったのだ。自ら苦難の道をその人間のために歩んでくださったのだ。人間から見ると理解しがたいものがあるだろう。主イエスは私たちの中の否定されるべきものをもはやご覧にならない。汚れた雑巾のように、私たちの中の、わずかの良い志を見ていてくださる。汚れた手の中の小さな業を、主は決して見失われない。これが神の私たちに対する意思、愛である。ある意味で神の愛は一方的で、無条件の愛と言えるだろう。神の愛のなんと奥深いことだろうか。

 そのようなことを思わされるとき、果たすべき課題の大きさと、なしうる業の小ささを思わないではいられない。けれども、私たちはこのことを知っている。「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを」(一コリント15:58)。