「疑いは信仰のはじめ」 ヨハネによる福音書20章19-29節

「疑いは信仰のはじめ」 ヨハネによる福音書20章19-29節

 トマスの言動が具体的に記されているのはヨハネによる福音書だが、最もよく知られているのは、イエスの復活をめぐる物語のところだ。トマスは弟子たちの「私たちは主を見た」(25節)という復活の報告だけでは納得せず、実際に手と脇腹に触れてみないと信じないと、懐疑的な態度を示したという話だ。この物語で、ちょっと不思議なのは、12弟子であるにも関わらず、主が、復活の日の夕刻、弟子たちに姿を現されたときにトマスがそこにいなかったということだ。
 
 不在の理由は書かれていないので、あくまで推測だが、もしかしたら、ある聖書学者たちの言うように、トマスはイエスの死を予期していたものの、それが現実となったショックが大きく、「傷心のあまり会うに忍びたかった」のかもしれない。もしそうだとすれば、彼の不在は心の優しさの表れといってもよいだろう。悲惨な現実に触れて泣き崩れ、立ち上がれないような人は弱い人だと思われがちだが、そうではなく、むしろ心の優しい人ではないだろうか。言い換えれば、トマスは愛の深い人だったということ。愛の深い人は悲しみも人一倍深く感じるからだ。

 では、そのトマスがイエスの復活の知らせを聞いたとき、なぜ「私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じない」(25節)と言ったのだろうか。ここで人はトマスに「懐疑論者」というレッテルを貼る。しかし疑うという行為は反対から見れば信じたいということではないか。信じられる証拠が欲しいということは、何としても信じたいというあらわれではないか。はなから信じる気持ちのない人は疑うこともない。だから、疑うというのは逆説的ではあるが信仰のもう一つの側面でもあるといえる。対象との関係が深いと言ってもよく、これは人間関係でも同じ。好きな人ができたなら、その人の名前は、住所は、どんな性格か、自分のことをどう思っているだろうか、友だちになれるだろうかと心配と疑いが出てくる。愛や信頼が形成されていく過程では疑いや不安、問いの波も同時に生じるものなのだ。

 全人医療を提唱した医師ポール・トゥルニエは「一番純粋な信仰とは、懐疑から免れることを求めるものではなく、いろいろのためらいや錯誤、数々の失敗や間違った出発によって手探りで進むものである」(「強い人と弱い人」)と言っているが、懐疑をこのように理解することは求道や信仰に対する健全な態度である。
 
 さて、今まではトマスに照準を合わせて、この復活の物語を見てきたが、今度は主イエスに照準を合わせて見てみよう。主は私たちに何のメッセージを語っているだろうか。先ほども見てきたが、弟子トマスは、他の弟子たちから、主の復活についての証言を聞いた時、そのお方の手の釘跡、脇腹の槍傷を見て触らなければ、信じないと言い張った。トマスは、よく知っているイエス、そのお方に間違いないかどうかを確認したかったのだ。その思いに応えて、主イエスはどうされただろうか。「お前はなんと疑い深いのだ。滅んでしまえ」などとは言われない。むしろ、主イエスはトマスに向かって、「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私の脇腹に入れなさい」と言われ、トマスに手と脇腹をお見せになり、触ることすらも許されたのだ。なぜだろうか。それは、主ご自身の方からなんとしても「手と脇腹の傷跡は、あなたの罪の赦しのためのものなのだ」ということをトマスに知らせようとされたからではないか。主イエス自ら、惜しみなくすべてを相手にさらけ出し、お与えになっておられる。だから、トマスは思わず「私の主、私の神よ」と告白をせざるを得なかった。その後で、主はトマスに言われた。「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と。
 
 トマスは主イエスを見る前に、弟子たちの復活の証言を聞くことで主を知る機会があったことを知らねばならないのだ。私たちもまた、「信仰は聞くことによる」(ローマ10:17)というパウロの言葉を思い出す必要があるだろう。同時に聞くことで信仰を得た人は、主から幸いな人であると言われていることを知らねばならない。「見ないのに信じる人は、幸いである」。

平塚バプテスト教会

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