戦争体験談から考える 

8月は平和を考える時でもある。8月6日広島、9日長崎の原爆投下、15日終戦。平和を考える時、いくつもの切り口、視点がある。その一つが、戦争体験談から考える、というもの。その時、できるだけ身近なところの体験談を聞くほうがいい。今住んでいるところのことや親や祖父母の体験などである。

 今住んでいる平塚の空襲は身近に感じる。太平洋戦争末期、多くの地方都市が米軍機B29による空襲を受けた。平塚もその一つ。平塚空襲は1945年(昭和20年)7月16日深夜から17日未明にかけて行われた。米軍のB29爆撃機132機が飛来し、市街地を焼き払うため焼夷弾約40万本を投下。これにより旧平塚市と近隣の町や村を含め8,000戸以上が全焼または半焼し、市内中心部は焼け野原となった。亡くなった人の数は328人以上という。教会の隣の見附町や今の横浜ゴム(旧海軍火薬廠)が焼け野原になった写真や教会周辺の畑に逃げ込んだ体験談を聞くとより身近に感じる。

 私にとって身近な戦争体験談といえばやはり両親からの話。ところが、なぜか親たちは当時のことを多く語らなかった。私の郷里、宇部市もやはり空襲にあった。空襲は計8回にわたり、被害は死亡者254人、負傷者557人、行方不明者68人、罹災人員2万5,424人、罹災家屋6,232戸、市街地中心部すべて焼失、と記録にある。最大の空襲は7月2日未明に始まった。母親の証言。誕生して2週間の姉を抱いて、焼夷弾の降る中、郊外にある祖母の実家へ逃げ込んだという。この空襲で母方の実家のお店(履物店)や家、数軒の借家、長屋すべて焼失した。父方の実家はかろうじて焼失をまぬかれた。百メートル先が戦後、闇市と呼ばれる商店街に発展していった。

 私の父親は徴兵で3年半中国中部方面の戦地へ。徴兵検査が乙(身体検査で甲乙丙とランク付けをした)で歩兵の部隊に行かなくて助かったという話ぐらいで、ほとんど軍隊での話はしなかった。しかし戦友会は昭和30年代半ばごろまで毎年のように行っていた。

 戦争体験談と言っても被害者としての体験ばかり、加害者としてのそれは闇の中。話せ、というのは酷か。