人々は、耳の聞こえない人に「手を置いてくださるように」(32節)と主イエスにお願いしたのに、主イエスは男の耳に指を差し入れ、そのあと指に唾をつけて相手の舌に触れられた。この行為は、古代における一般的な治癒行為で、魔術的なものではなく、相手の苦しみに対する共感と癒しの意図を伝えるためであった。
また、「天を仰いで」は祈りを指し、そして、このように祈ったのも、この男にこれから行おうとしていることが、天の力によるものであることを示すためでもあった。「深く息をつき」とは、「うめく」とも訳せる。「うめく」と聞くと、ローマ8章23節を思い出す。「“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」。 相手の心に共感し、その苦しみを共にする憐れみの心を読み取ることが出来る。主イエスの病人に対する深い同情が示されている。
「エッファタ」は、当時、主イエスたちが日常的に話されていた言葉であるアラム語。福音書はギリシャ語で書かれているが、この場面ではあえて主イエスの生の声を再現している。主イエスの力強い言葉の響きをとどめたかったのだろう。
そして、最後の37節は、救い主到来の時の光景を描いているイザヤ書35章5節を引用している。「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く」。マルコは、今こそ救いの時が始まったのだと訴えている。マルコ1章15節「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」のみ言葉がここでも響いてくる。
主イエスが救い主であるのは、奇跡を行うからではない。奇跡は一つの「しるし」にすぎない。主イエスが救い主であるのは、十字架の死によって、私たちの罪をにない、それによって、私たちが赦されたということによるのだ。だから、主イエスは自分が「奇跡的な癒しをする人」、単なる「超能力者」として知れ渡ること、そしてその力を用いて政治的解放者、指導者になって欲しいという人々の期待を拒否なさったのだ(36節)。
私たちは、このお方に何を求めてもよいのだが、その全てが与えられるわけではない。主イエスが最終的に与えようとしておられるものの妨げになるのであれば、主イエスは私たちの求めには応じようとはなさらない。しかし、どんな人でも決して拒まれることのない求め、主イエスが最終的に私たちに与えようとしておられるものは、主イエスと共に生きる新しい命である。
この男が与えられたのも新しい命。今までは、自分の世界に閉じ込められていた。しかし、主イエスに呼ばれて出て行き、主イエスに信頼して自分の身を任せた時に、思いもかけない新しい生き方が彼を待っていた。一歩、前へ出て、主イエスに信頼して生き始めることが、古い自分に死ぬこと。その時、自分が神から心をかけられており、自分の存在を神が喜んでおられることを知らされ、新しい命に生き始めるのである。
主イエスと共に生きる新しい命をいただくためのヒントが33節の「イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し」という言葉に示されている。主イエスは、全く個別に関わりをもたれる。一人ひとりを大切にし、その人の痛みに心から共感される。主イエスは、結果的には多くの人を癒されたけれど、あくまでも、その時その時一人ひとりに心を用い、必要な助けを与えられたのだ。決して癒しを見世物にはなさらなかった。これは、立場を逆にしてみれば、私たちはみな、一人ひとり主イエスの前に立つことを求められているということだ。自分が呼ばれていることを知って、従って行くという生き方が求められている。そこでこそ主イエスと出会い、主イエスとの深い交わりに、すなわち救いに入れられるということが起こるのである。
信仰の友に支えられながらも、ひとり主イエスの前に出るということが大切である。その時、主イエスが耳に指を入れ、舌に触れてくださり、私たちが「はっきり」(35節)と主を讃美して生きることを可能にしてくださるのである。