「福音は驚きの連続」マルコによる福音書2章1~12節

福音は私たち人間にとって驚きである。主イエスの教え、御業はどれをとってみても驚きである。私たちは主イエスの話を聞いて、とても素晴らしいお話でしたとか、立派なお話でよく分かりましたということもほとんどない。当時の人々もひたすら驚いていた。マタイ福音書7章28節にも「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた」とある。今まで聞いたことのないことを耳にした人々の反応がうかがえる。今日の箇所もそう。12節に「人々は皆驚き、『このようなことは、今まで見たことがない』と言った」とある。神の言葉や御業は、そのような反応を人々に起こすのだということである。神の言葉が語られるところでは、人々の心も揺さぶられ、騒ぎ立つのである。

 もともと神の言葉は人間にとって異質であるばかりか、むしろ受け入れ難いものである。立派な教えです、有難いことですと歓迎して受け入れられる類の心地よいものを持っていない。「そんなことは聞いたことがありません」と言うのが正直な私たちの反応ではないだろうか。もし神の言葉を聞いて、「よく分かりました」という程度のものであれば、それは人間の言葉の範疇にとどまるだろう。神の言葉は、人間の理解を超えている。その意味では、聞いて驚くのが自然の反応である。驚かなければ、逆に神の言葉ではない。

 さて、私が今日の聖書の箇所で驚くのは、「イエスはその人たちの信仰を見て」と語られていることである。主イエスが、中風の人の信仰を見られて、というのではない。あるいはまた、中風の人が悔い改めて主イエスの所に来たので、というのでもない。中風の人が何かをしたとは全く語られていない。自分で主イエスに近づいたというのではない。本人は何もしていないのである。でも、救いはその人のところに来たのである。「その人たちの信仰」によってである。驚くべきことだ。

 「その人たちの信仰」とは中風の人を運んで来た四人の信仰である。中風の人の床を持ち上げ、重い床を徴税人の所まで引きずってきて、屋根にまで高く運び上げて、屋根をはがして、綱をつけて、主イエスの足下にまで男を降ろした四人の信仰である。この四人がいなかったら、中風の男はどうなっていただろう。いつまでも自分の居場所に居続けて、生涯の決定的な転機を経験することもなかっただろう。完全に救いのない生涯、祝福されない人生。しかし、この中風の男のために労を惜しまず運んでくれた四人がいてくれたということが、この人に救いをもたらしてくれた。これは驚きの出来事であると同時に、私たちにとって希望の物語となる。自分の努力や修行や業績ではなく、救いは向こうからやってくる。主イエスからやってくる。そのためのとりなしをしてくれる者がいるということ。まさに希望である。

 ドイツの神学者ボーレン教授は、『天水桶の深みにて』という本の中で、妻が深く心を病んだ時、その傍らにあった自分の労苦、悩み、そして罪を語っている。病む妻がみ言葉を読むことも、祈ることもできなくなった時、何とかして自分でそれを回復するように励ましても無駄であった。その時、自分がなすべきであったことは、代わりに読み、代わりに祈ることであった、と述懐されている。代わりに祈る。それこそが「とりなし」である。誰かのために祈ることは、その人に代わって、ということである。

 もう一つ、この中風の男の物語で、私が驚くのは、主イエスがこの中風の男にこう言われたことだ。「子よ、あなたの罪は赦される」。連れてこられたのは病人。癒しの業を行われるのかなと思っていたら「子よ、あなたの罪は赦される」だ。私たちには驚きと同時に理解できない。罪の赦しなんかより、癒して欲しい、それが人間の本音ではないだろうか。なぜ主イエスはそう言われたのだろうか?

 それは人は癒される以上に、まず救われなければならないことを明らかにされるためである。中風を病む人の癒しに先立って、主イエスは罪の赦しを宣言される。すべての人は、罪人であって赦しの対象である。健康であろうと病気であろうと、幸福であろうと不幸であろうと人間としては罪人なのだから赦しを受けねばならない。中風の人に向かって、「あなたの罪は赦される」と言われるのは、病人である前に人間であることを主イエスは認めておいでになるのである。そして赦しはその人の全存在を包むもので、しかも永遠の命に結ばれるのだから、生き死にを越えた出来事としてその身に起こる。癒しは、それに反してあくまでもこの世のことであり、肉をもって生きている限りのことである。いかに癒されたとしても死ねば、そこまでのこと。癒されただけでは救われたことにはならないのである。

 福音は驚きである。しかし、このようにそこに神の真実、神の愛が隠されている。この愛を聖霊の助けをいただいて受け入れ、救いの確信を持つ者となろう。