「主はすぐ近くにおられる」フィリピの信徒への手紙4章2-9節、詩編46編

ここでパウロは、「主において常に喜びなさい」(4節)と言っている。常に喜びなさいといってもそんなことできるだろうか。難しい。ただし、ここでパウロは「主において」と前提した言い方をしている。さらに6節で「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」と勧めている。しかし、私たちの日常は、教会、仕事、健康、家族、お金、人間関係と実にさまざまな事柄に思い悩む日々である。「どんなことでも」と言われると、一層難しさが増す。

 思い煩っているとき、私たちはどういう状態にあるだろうか。思い煩っているとき、私たちは問題を自分の中に抱え込んでいる。自分の中に抱え込んで、誰にも打ち明けることができない場合が多い。思い煩っているとき、私たちは多くの場合、孤独である。親しい人にも打ち明けられない。辛い状態なのに、神にも打ち明けない。しかし、聖書は「思い煩いをやめなさい」という御言葉の後に、「何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」と言っている。思い煩っているときの私たちは、思い悩んでいるそのことを感謝を込めて祈れないでいるからだ。問題を自分ひとりに抱え込んでいるということは、感謝をもって祈り、そして神に願い、打ち明けることをしていない。つまり、まるで神などいないように振舞っているわけである。これが思い煩いの正体である。自分にとって神がいなくなっている。自分が自分の主になっている。自分の未来も自分でどうにかしなければならないと思っている。本人は大変苦しい状態なのだが、結局それは神を否定して、まるで自分が神の役を演じているかのよう。神を神としていない。

 そういう思い煩いをやめなさいと聖書は言う。「常に喜びなさい」とも言われている。出来るだろうか。「常に」とあるのは、嬉しいときだけではなく、嬉しくない時にも「喜びなさい」ということだ。「常に」とか「どんなことでも」というのは、問題はその人の気分の問題ではないし、いいことがあった時のことではない。その人の性格や気質によることでもない。だから「常に、喜びなさい」と言い、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」と言うのである。その理由として語られているのは、「主はすぐ近くにおられます」という事実である。主イエス・キリストの近き存在に理由を持っているのである。そのことは「主において常に喜びなさい」という「主において」という言葉と響きあう。さらに、7節の「あらゆる人知を超える神の平和が、あなた方の心と考えとをキリストイエスによって守るでしょう」という言葉とも響きあう。

 このように繰り返し「主において」とか「キリスト・イエスによって」と言われている。キリストが共におられるのだから、常に喜びなさい、思い煩うのをやめなさいと言われるのである。私たちはもう既にイエス・キリストの贖いの力、執り成しの力、そして裁き、赦す力、主イエス・キリストの恵みの力の中に生かされているのだ。キリストの力の圏内に生かされている。神の愛の支配に入れられている。そこから、あなたは愛されている、というメッセージがでてくる。だから、「常に喜びなさい」であり、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」という勧めがなされているのである。「主はすぐ近くにおられます」、だから「何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」。

 ルターが愛唱した詩編46篇に「神は私たちの避けどころ、私たちの砦。苦難の時、必ずそこにいまして助けてくださる」(2節)とある。口語訳では「神はわれらの避けどころまた力である。悩める時のいと近き助けである」と訳されている。神は「いと近き助け」なのだ。だから恐れるな。私たちの避けどころであり、私たちの砦となって下さり、苦難の時、必ず近くにいて助けてくださる神なんだ、とこの詩人は告白している。だから、そのあとの11節で「静まって、私こそ神であることを知れ」と言っている。そのような神であることを知れ。言い換えるならば、そのような神を信頼しろ、ゆだねよ、私たちの思い煩いをすべて神にゆだねて、平安を得よ、喜びを得よ。そして感謝して励めよと私たちに勧めているのである。