元旦礼拝  「新しい歌を主に向かって歌え」詩篇98編1-9節

人間の時(ギリシア語でクロノス)は2種類あるという。一つは直線的な時。過去、現在、未来という流れの中の時間。もう一つは循環する時。朝、昼、夜と巡り、また新しい朝が来る。今日はそういった意味で巡る暦の上で新しい年の始まり。新しい時を迎えたとき、今年こそはと心に思い定めるよい機会である。

 しかし、私たちはもう一つの時を生きている。それは神の時(ギリシア語でカイロス)。神の時とは、永遠、決定的なかけがえにないその時、という概念を含んでいる。聖書でいう「永遠の命」、あるいはキリストが十字架にかけられた時は決定的なその時である。一回だけのその時。その両方とも神の時、神の御計画の中にある時。時間、歴史をも支配しておられる神の時。私たちもその神の時に生かされている。

 今日の説教題の「新しい歌を主に向かって歌え」という「新しい」は神の時による新しい時の新しい歌のことである。聖書によれば、キリスト者はキリストによって新しく造り変えられた者である。パウロは、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(第二コリント5:17)と書いている。人間の文化は成長や進歩向上を遂げつつ新しさを形成するが、信仰の新しさは神の恵みによる新しさである。恵みによる新しさは、予想することもなく、計画によってでもなく、瞬時に与えられたというべき変革である。神の介入による新しい時。

 キリスト者はこの神の恵みによる変革によって、わが身をすっかり新しくされていることを驚きと感謝のうちに受け取るのである。この詩篇の作者は、「今」というこの時に神の恵みによって変革した自分自身を発見して、「新しい歌を主に向かって歌え」と言っている。

 ルカ福音書1章のマリヤの賛歌と、この詩篇とが共通しているところから、これは旧約のマリヤの賛歌と呼ばれている。「主は驚くべき御業を成し遂げられた」とあるのは、イスラエルの人々のバビロン捕囚生活からの解放のことである。それは政治的にはペルシャのキュロス王の台頭によってもたらされたものであったが、イスラエルの人々は歴史を支配しておられる神の業と見たのである。遠い異国バビロンでの捕囚生活は、彼らにとって非常な苦しみであったが、それにも増して彼らを苦しめたのは、ひたすら寄り頼んできた神への信頼のゆらぎであった。本当に神は私たちのことを覚えていられるのだろうか、本当に神はあるのだろうか、本当に神は契約(約束)されたのだろうか、そういう思いが次々と起こってきて彼らを悩ました。それだけに神は覚えていてくださった、3節にあるように「慈しみとまことを御心に留められた」という喜びは限りなく大きかったに違いない。そこから、この「新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた」という喜びにあふれた賛歌が生まれてきたのである。

 マリヤの賛歌で、マリヤがあのように高らかに神をほめたたえたのはなぜか。それはこの卑しい女をさえも心にかけてくださったということを知ったからであり、その神の愛に気づいたとき、彼女はもう自分の全存在をかけて神をほめたたえずにはおれなかったのだ。この、そうせずにはおられない福音信仰が、恩寵宗教いわゆるキリスト教の根幹なのである。

 神の救いのみ業は神の勝利(口語訳)である。全地が歌うべき、すべての人に関わる勝利である。礼拝は、どんなに小さいものであっても、この勝利(神の救いのみ業)を歌い、いつも新しい歌によって作られていくのである。神の救いのみ業は日々なされているのである。神の時から考えれば、私たちは日々新しくされて、生かされているのである。神の恵みは日々私たちに与えられているのである。だから、日々新しい歌をもって神をほめたたえよう。この新しい一年も一日一日、「驚くべき御業」「くすしきみわざ」を覚え、感謝を持って歩んでいこう。