「福音に仕える喜び」 エフェソの信徒への手紙3章7-13節

神はどんな人にも、その人でなければ果たせない使命を与えておられる。すなわち人は誰でも与えられた「命を使って」生きている。生まれてから死ぬまことだけにしか使わない人は使命を果たしたとは言えない。使命を果たすとは、自分自身の利己心や虚栄心や物欲を制して、自分のためだけではなく、自分以外のたで、人は与えられた命を自分の命として使うことが出来るが、その命をただ自分のめに役立てることだ。それは私たちをこの地上に遣わされた方の御旨に従い、神のために自分に与えられた務めを果たすことだろう。では、神の御旨とは何か。一言で言えば「神を愛し、隣人を愛すること」だ。そのことの具体的な実践は色々あるが、要は私たちがいかなる状況のもとにあっても、全世界よりも尊いこの命を何のために用い、また何のために捧げて生きるかが問われているである。

 ドイツ人で上智大学名誉教授のアルフォンス・デーケン先生は「死の哲学」という本の中で、「美しい人間の生きざま、死に方について」書いておられるが、他者のために「生きる」、生きるとは他者のために生きるということである、とはっきり書いておられる。さらに、デーケン先生は、「大きな使命感を感じながら生きていけたら、もっと人生も意味あるものとなるだろう」と言われる。

 パウロはこの使命について、揺らぐことのない確信を持っていた。今日の聖書箇所は、パウロが与えられた神からの使命とその内容について語っている。パウロは神のため、そして異邦人のためにその使命に生きた。パウロは、7節で「神は、その力を働かせてわたしに恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました」と言う。福音に仕えるとは、福音に押し出されて止むに止まれず福音を宣べ伝えたいということである。パウロはまた、第一コリント9:16で次のように告白している。「もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」。

 キリストを信じる者となったとき、そのキリストを他の人に、特に異邦人に宣べ伝えるということは、パウロにとっては「そうせずにはいられない」ことであったことがわかりる。真実な信仰とは必ず何らかの形で表現されずにはいられないものである。それが真実に私たちの心をとらえているなら私を動かさないはずがない。「神は愛である」と聞いても、ああそうですか、という程度の理解では、それは確かに何の力もない観念であり、知識でしかない。しかしこの神の愛がイエス・キリストを通して自分に迫っている、そのように受け取る者にとっては、この感動はもはやどこかに表現せずにいられないものとなるのである。

 使徒パウロも、はじめはユダヤ教徒だったから、キリスト教徒を迫害していた。その最中に復活のキリストに出会い、一つのことを真実に経験したのだ。それは自分がかつてはどうにもならない罪のとりこであったこと、しかしこの自分をキリストは赦し、神のみ前にとりなし、自由と使命を与えて下さったという事実である。パウロはこのキリストのゆえに神に感謝せずにはいられなかった。だからまた、自分はこの事実を告げ知らせずにはいられないという魂への迫りがあった。この確信こそ、パウロをして伝道者たらしめ、またパウロの全生涯をただ伝道のために使い果たさせたところの究極の力であった。

 私たちに与えられているのもまた、これと同じ恵みの経験ではないだろうか。そしてこの恵みの経験こそが私たちを伝道に駆り立てる最も純粋な、最も力強い動機となるのである。「異邦人に福音を宣べ伝えなさい」ということが、もし全員講壇に立って説教しなさいというのであれば、「私にはできません」という人があるかもしれない。しかし「あなたに与えられた恵みを語りなさい」という証しならできるのではないか。また、神を紹介することなら出来るのではないか。教会にお誘いすることなら、チラシ配りなら、とりなしの祈りなら、会堂のお掃除なら……。主に示されたことにチャレンジしてみよう。

 使徒パウロと共に、神の恵みを無にしないで、土の中に隠さないで、恵みに押し出されて、福音に仕えることを喜び、それぞれに与えられた賜物を用いて、実践に励んでいこう。

平塚バプテスト教会

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