「聞くことから確信へ」 使徒言行録16章6-10節

俳人の種田山頭火の句に次のような句がある。「まっすぐな道でさみしい」。含蓄のある一句だ。私たちは曲がりくねっている道より、まっすぐな道を選ぶ。曲がっているとすぐまっすぐにしたくなりトンネルを掘ったりする。曲がりくねった人生の歩みより、効率のいい無駄のない人生の歩みをどこか望んでいる。それを山頭火は「まっすぐな道はさみしい」と言うのだ。人生、山あり谷あり。一寸先は闇。何か危機的状況や想定外なことが起こった時、私たちはどのように受け止めて生きていけばいいのだろうか。

 ここでパウロは、しばしば聖霊に禁止され、行く手をさえぎられている。パウロはただここで北に西にさまよい歩いているように見えるが、ただ足の赴くままに、のんきに旅を続けているのではない。彼は妨げられているのである。それは神の「否!」にほかならない。しばしばさまようことさえ神の御手の中にあることを私たちは忘れてはいけない。何か思うようにいかないときは、神が「否」と言われているのではないかと思う気持ちの余裕を持ちたいもの。神が扉を開かないところでは、いかなる人間の熱心も、いかなる賢い知恵も、力も役に立たない。箴言の21:30-31に「主に向かっては、知恵も悟りも、計りごとも何の役にも立たない。戦いの日のために馬を備える、しかし、勝利は主による」とある。閉じ込められるのも福音の内、妨げられることさえも聖霊の御業。神はしばしば不確かの闇の中にその聖霊の使者を立たせることがある。それは福音宣教の働きが、人間の手の業ではなく、恵みの御業であることが明らかになるためにほかない。

 パウロは、途上で何度も問うたことだろう。「主よ、一体いつこのまわり道が、一つの道になるのですか。いつこのあてどのない漂白の旅が、ひとつの確かな方向に変えられるのですか」と。けれども、このよく語るパウロは、聞くことを忘れない。その聞くことからのみ、真の服従が出てきて、ついに人は慰めに満ちた確信に到達する。詩編の119:45に「私は、あなたのさとしを求めたので、自由に歩むことができます」とある。

 この夜、パウロは幻を見た。夜それは、しばしば人が道を失い、あるいは多くの人々が歓楽に耽り、またある者は不安におののく時である。時代の夜、不安の夜、人々はなんとそれにおののくことだろうか。しかし、人間の計画が崩れる時、神の計画がなるのである。箴言19:21に「人には多くの計画がある、しかし神の御旨のみ、よく立つ」とある。パウロが幻のうちに見た、マケドニア人の叫び「マケドニア州に渡って来て、私たちを助けてください」。それに応えて、パウロたちはマケドニア州に行く。それは新しい戦いの始まる時であった。福音が初めてアジアからヨーロッパに渡る時、歴史的な時であった。「来て、私たちを助けてください」との声を聞いた時、彼らは悟った。「神が私たちをお招きになったのだ」と。「来て私たちを助けてください」との声を聞き、それに従う時のみ、私たちは「神が私たちをお招きになったのだ」という、もう一つの声を聞くことが出来るのである。私たちが妨げられ、邪魔され、行く手をふさがれた時であっても、聖霊の助けに素直に従うなら

平塚バプテスト教会

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