「キリストにおいて一つとなろう」 マタイによる福音書16章13ー20節

私たち人間はいろいろな問題に悩まされる。悩みの中で疑問や迷いを抱き、問いを持つ。しかし今朝、聖書を読むと、人間は問うだけではなく、問いかけられてもいるという。神が私たちに問われる。主イエスを通して神が私たちに問うている。そしてこの神の問いかけに答えることが、人間のいろいろな悩みや問題の答えになるのだ。神のその問いかけとは、「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」という問い。主イエスはそう問いかけた。ここに実は人間にとっての「最大の問いかけ」があると言ってよいと思う。聖書はその問いかけのために書かれているといってよいだろう。

 人生には確かにいろいろな問題がある。例えばトラブルがあり、悩ませられることが様々起こる。そして私たちは自分を見失い、進むべき方向を失い、他者ともうまくやっていけなくなる。しかしその時にも、この最大の問いかけ、「それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか」という問いかけを聞き、この問いかけに答えながら生きるとき、人間は真実に生きることが出来る。

 主イエスの「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。この問いに弟子のシモンは答えた。「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子です」。そう答えたシモンを主イエスは「岩」だ、ペテロだと叫んで、「その上に私の教会を建てる」と言われた。今朝、皆さんは教会の礼拝に集まって来られた。それは、実は「岩の上」に来たのである。教会はその岩の上に立っている。それはまたどんな問題や悩みの中にあっても私たちの人生を真実に生きることの出来る「岩」である。その岩とは「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子です」という、主イエスに対する信仰告白である。これが教会の土台であり、また私たちの人生の土台なのである。

 では、一体、教会とはどんな群れだろうか。それは、どんな時にも、この主の問いかけとシモン・ペテロの答えが生きて、力を発揮しているところである。この問いを「最大の問い」とせず、またあの答えを失ったとき、つまり世の中にはもっと深刻な問いがあると考えたり、もっと別の答えがあると思ったとき、教会はその命を失い、力を失う。逆に、これこそ「最大の問い」とし、それに対する真実な答えをする時、教会はどんな時にも力を発揮する。

 主イエスは言われた、「私の教会を建てる」。教会(エクレシア)という言葉は、呼び集められた者の集会、あるいは群れ、という意味。主イエスは弟子たちをご自分の周りに呼び集められた。十二弟子を選んだということは、神の民であるイスラエル十二部族を象徴して、選んだのである。神の民が新しく建てられ、集められるために主イエスは来られ、十字架にかけられた。

 新しく神の民が集められるにはどうしたらよいだろうか。何によって民は集められ、一つにされるのだろうか。私たちは罪によって自分自身失われた人間。また、罪によって他者を失う人間である。自己中心のあまり、愛することができない人間である。それにもかかわらず、教会は新しい神の民としてどのように建てられるのだろうか。呼び集められた人間の群れ、教会も愛に失敗するのではないだろうか。その教会が罪と死に打ち勝つところと、どうして言えるのだろうか。天の国に通ずるとどうして言えるのだろうか。それは「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子」、この主への信仰告白によって可能にされる外はないのである。

 「あなたはメシア(キリスト)」、そうお答えする時、私たちはそのメシアの民とされる。「あなたはメシア(キリスト)」、そうお答えする中で、私たちは罪を赦され、愛の破れを癒される。死から生き返らされる。そうお答えする中で、私たちは真のクリスチャンにされていく。キリストに結ばれ、死と罪から解放され、天の国へと通じる存在にされている。私たちも答えようではないか。「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子」と、そう答えることが可能である。天の父がそれを可能にしてくださる(17節)。神は私たちがそう答えることを喜んでくださる。

 平塚教会も今までもそうであったように、これからも「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子です」と、大胆に信仰告白していく群れとして、祈りをあわせ、キリストにあって一つになって歩みを進めていこう。

平塚バプテスト教会

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