「わたしたちのリーダーはイエス・キリスト」ルカによる福音書 23章39節ー53節

先週は神奈川県知事選挙でしたが、統一地方選はいよいよ後半戦です。平塚市の政治を担う人々が選ばれてようとしています。平塚市では多くの候補者が立つ予定だそうです。自治体のリーダー達が選ばれる大切な投票です。来週はイースターですので、日曜日の投票はいけないかもしれません、早めに期日前投票を済ませましょう。

 

いま世界ではリーダーのあり方が問われている時代です。一部の政治家や企業役員が自分の利益だけを追求しています。世界のリーダーはいつまでそれを続けるのでしょうか。「自分のためだけに生きるのではなく、他者のために生きる」教会は特にそのことを大切にする場所です。他者と出会い、祈り、支え合う、仕えあうのが教会です。「共に生きる」教会はその大切さを自信をもって社会に伝えてゆきたいのです。

 

一方、戦争の時代には自分が我慢すればみんなが幸せになる、自分がすべての不幸を被れば、全体がうまくいく、そう教えられていました。多くの命が、誰か・何かのために命を捨てざるをえない、そのような時代でした。「他者のために生きる」は「他者のために死ぬ」という事とすり替えられ、犠牲が正当化されてきました。しかし教会はそれに反対します。そして教会も信徒の方の誰かが犠牲になって、この教会を支える事を許しません。それでは本当の教会に、互いに仕え合う群れにならないからです。私たちはそんなとき、社会で教会で一人のために不幸や不便を分かち合うのです。

 

私たちは他者と共に生きます。それは全員が全員のために、互いに仕えあうという生き方、そして一人の犠牲者もださない生き方です。リーダーにも、私たち一人ひとりにもこのことが求められているのだと思います。

 

イエス・キリストの十字架は愚かな姿に見えます。救い主、リーダーに最もふさわしくない死に方に見えます。それは世の人には愚かな死に方のように思えるかもしれません。それは最後まで他人を救った、自分を救わず他人を救った生き方です。まず自分だろ、自分を救え、そう罵られながら、最後まで他人を救ったのです。それが私たちのリーダーの姿なのです。

 

今週共にこの十字架を見上げながら、そしてイエスのまなざしが注がれている、他者を見つめながら、そして隣人の温かいまなざし、祈りを感じながら主に歩んでいきましょう。

 

私たちはみんなのためなら、一人の十字架は「しょうがない」といいません。イエス様が十字架にかかってくださった、だからこそもう絶対に誰も犠牲にしない、ならないと誓うのです。これが私たちのリーダーです。最後の犠牲者がイエス様なのです。

今日は主の晩餐を持ち、私たちの信仰告白の「救い」を共に読みます。救いとは、ただ神の愛と恵みによるとあります。今、神の愛を感じ、他者を犠牲してしまう私たちの罪を悔い改め、主の晩餐の時をいただきましょう。