【全文】「不安に振り回されないキリスト」ヨハネ18章1節~14節

みなさんおはようございます。今日もインターネット上ですが、共に礼拝をできること感謝をします。インターネットで共に礼拝が出来る事を感謝しています。また、特に今私たちは祈りを必要としています。新型コロナウイルスに感染された方々、そのご家族、医療従事者の方々を覚えて、祈ります。

私たちの教会でも、3月中はコロナウイルスの関係で礼拝と祈祷会以外をお休みしています。ちなみに先々週の祈祷会で今日の個所を分かち合いました。今日はその分かち合ったことの中から宣教をします。私の言葉だけではなく、皆さんから上がった言葉から宣教をします。みんなで作った宣教です。

私たちは礼拝と祈祷会以外をお休みをしてからもうすぐ1か月がたちます。みなさんはこの期間、どんなことを気付いたでしょうか。そして今日は、会堂に集わずに礼拝をしています。私たちには交わりが不可欠です。今月、そして今日、それができない事が本当に心苦しく思います。

皆さんと顔を合わせることができない、教会に来ても教会学校や昼食が無いということが私たちの共同体にとって、私の生活にとって、どんな影響を与えているでしょうか。私はああ失ったものはとても大きいと実感しています。皆さんと毎週合うのが楽しみだったのです。一緒に礼拝をするのがうれしかったのです。

食事が無いことも残念です。礼拝を終わった後に会話するのも、なかなか食事をしながらではないと、席に座ってゆっくり話すという事ができないのです。皆さんとの会話に励まされたり、祈りの課題をいただいたりしていたのが、それが足りていないと思います。今日も、この礼拝を寂しく思います。

しかし礼拝と祈祷会以外を辞めるという事は、礼拝と祈祷会は絶対にやめないという思いも含まれていました。今もう一度礼拝に集中し、礼拝を貫くという思いをもって、他の集会を辞めてたのです。それだけ私たちは礼拝を大事にする、祈る場所を大事にするという事です。

しかし様々な制約があり、今日はとうとう集うことをしないということを選びました。私たちは、集いません。しかしこれは礼拝をしないという事ではありません。礼拝は集いがとても大切です。しかし、集えなければ礼拝をしたことにならないかと言えば、そうではありません。私たちはどのような場所や時においても神様を礼拝することができます。できれば一緒に礼拝をしたいのですけれども、今日はそれぞれの場所で礼拝しましょう。今日は礼拝がお休みなのではありません。集うことは休んでいますが、礼拝は休みません。延期もしません。今しかできない、みなさんのいる場所でしかできない礼拝を、今だからできる、今いる場所だからできる、精一杯の礼拝を捧げましょう。

そしてもう一度、集まって礼拝ができる、その当たり前だった事が、当たり前ではない、大きな恵みの出来事だったんだということに、目を向けたいのです。私はすぐに、ああ、はやくいつも通りに礼拝したい、またみんなと一緒にご飯が食べたい、交わりを持ちたいと思ってしまう者、私自身がそうなのですが、いえ、まず今日、それぞれの場所で礼拝が出来るということに、その恵みに目を向けなければいけないと思います。

不安や不満ではなく、足りないものではなく、神様から今日頂いた、恵みを数えるということを大事にしなければいけない。足りないものが、こんな不安が渦巻く時だからこそ、いま私が何に神様の恵みをいただいているかを考えたいのです。祈祷会でもそのような言葉を発せられる方がいました。私もはっと気づかされる思いでいます。今日も集まれないということではなく、礼拝ができる恵みの時としていただきましょう。胸を張って神様の恵みが私たちにあるとこの礼拝を持ちましょう。

いま私たちは不安の中に過ごしています。次に何が起きるのか、世界はどうなるのか、新聞とテレビをしがみつくように見ています。そして誰かこの不安を消してくれないかと望むのです。実に、私たちは不安になりやすい弱い者です。パニックになりやすい者です。そして不安に向き合う時、足りないもの、失われたものにばかり目が行き、いま続いていること、守られている事を忘れがちです。すぐに忘れてしまう者です。私たちは不安になった時、すぐに恵みとイエス・キリストを忘れてしまう者です。

毎週熱心に教会に通い、祈っているにも関わらず、不安な時、イエス様のことを忘れてしまう者です。イエス様をいつもいただいていても「でもさすがに今は」「でもこんな時だから」とか「でも私はちがう」とか、信仰に対してそんな気持ちになってしまう者です。不安な時、不確実な時、私たちはイエス様を忘れてしまう存在、イエス様の恵みをわすれてしまう存在であることを改めて今知るのです。

今日皆さんと分ちあいたいのは、この不安の時代、もう一度礼拝の恵みを、イエス様の恵みを、いま私たちが失っているものではなく、私たちが受けている恵みを感じたいと思うのです。私たちは無いものではなく、あるものに目を向けます。ないものではなく、ある、私はあるというお方に、神様に目を向けたいのです。今日も共に聖書をお読みしましょう。

 

今日の個所、まず私は不安の中で、人間がどのような態度をとるのかということを、聖書から見ます。

今日の物語の中でもっとも不安なのはペテロです。彼は自分の信頼してきたイエス様が犯罪者として逮捕される、そのような喪失を経験しようとしています。自分の大事なものが奪われようとしています。彼にとっては大きな不安だったのです。

彼は、そのような時、剣を手に取ってマルコスという人に切りかかったと言います。彼は相手を殺そうとしたのです。自分に不安を与える存在を殺そう、不安の原因を取り除いてしまおうと考えたのです。彼は持っていた剣を振り回します。しかし、その剣は耳にしか当たりません。耳という言葉は、耳たぶという意味もあります。つまり耳全体が切り落とされる姿ではなく、耳たぶに、かすっただけとも言えます。ちょっと血が出るくらいしか当たらなかったというのです。

ペテロは相手を狙い定めて一振りしたのではありません。やたらめったら、めちゃくちゃに剣を振り回すのです。そこから見えてくるのはペテロが、不安で神を忘れ、剣を振り回す姿です。私たち人間は不安の時このような態度をとるのです。不安や不足がある時、誰でもいいから不安をぶつけたくなるものです。ドラッグストアの店員か、並んでいる人か。外国人か。誰でもいいのです、剣を振り回して、相手を傷つけることで、不安を誰かにぶつけることで、不安から逃れようとします。しかし、イエス様の前ではそれはまったく意味のないことです。かえってそれは神様の働きを損なうことです。不安を相手にぶつけるだけでは、何も起こらないのです。

そして私はもう一人、見ておきたいのはカヤファという人物です。彼も不安に襲われた人物でした。彼は、ユダヤ全体が安定するためには、イエス様が死ぬことは、しょうがないことだと考えました。一人のために全体が迷惑をこうむるなら、その一人は死ぬのもやむを得ないという考え方です。この場合の迷惑とはおそらくイエス様の活動によってユダヤ人の大祭司の支配が揺らぐこと、あるいはローマ帝国から目を付けられることです。

そのような迷惑、不安が起きるならば、その一人が死ねば済む問題だという考え方です。犠牲になってもらうという考え方です。みんなのために、あるいは自分たちのために、誰かを犠牲にするという考え方です。これが人間が不安に直面した時の考えです。この不安を消すために、誰か、犠牲にするしかないそう考えるようになるのが人間です。全ての人間の持った罪です。イエス様はそのような人間の罪のために、十字架にかけられてゆきます。

これが人間の不安に直面したときの姿です。ある者は剣を振り回し、誰かを傷付けることによって、不安から逃れようとします。しかしそれは必ず失敗をします。ある者は一人を犠牲にして、自分達は助かろうします。その罪が、その罪のために、イエス様は十字架にかかられたのです。

 

私たちは不安の時、どのようにその不安に向かい合うべきでしょうか。暴力でも犠牲でもない向き合い方を私たちは探し求めます。その時、イエス様が、私たちとは違う行動をとられたという事を知るのです。イエス様は自分がどんなに不安でも、苦難を受けると分かっていても、神様に視線を合わせ続けたお方です。誰かに暴力を、誰かに犠牲を強いた方ではありません。暴力と犠牲を超えて、神様の道を選ばれたお方です。

イエス様の歩みを見ましょう。イエス様は弟子たちと食事をし終わると「キドロンの谷の向こう」に行ったとあります。イエス様はどうしてそこに行ったのでしょうか。ここは大変危険な場所であったはずです。なぜなら裏切るユダとも来たことのある場所だったからです。

弟子たちと何度も来たことのある場所でした。逃げるならみんなの知らない場所に逃げるべきです。しかしイエス様は弟子たちよく行ったキドロンの谷の向こう、いわゆるゲッセマネに行ったのです。この事は、あえてイエス様が見つかりやすい場所に行かれたということです。見つかりやすい、捕まりやすい場所にイエス様は行かれたのです。

ここにこの十字架の出来事があります。イエス様はもちろん十字架にかかりたくないのです。ご自身も不安な思いでいるのです。でもそれをまるで自分から十字架に進むかのように、積極的に受け止めていくのがイエス様なのです。

この前の食事の場面でもイエス様は、13章27節ではまるでユダに裏切りを促しているようなのです。「しようとしていることを、今すぐしなさい」とイエス様は裏切り実行を迫るのです。イエス様は裏切りを止めようとしません。むしろそれを促し、ご自分から事柄を起こしてゆくのです。

今日の個所にも、イエス様を捕えようとした人々が地に倒されたということがあります。それも同じです。イエス様は相手を倒す力を持っていたお方です。しかしそれにも関わらず、捕まるのです。つまり自分から裏切りを促し、見つかる場所に行き、逃げる事ができても逃げない、それがイエス様が不安に向き合う態度でした。私たちとは大きく違います。

イエス様は自分という殻を抜けて、不安という殻を抜けて、神様が定めた道を歩もうとされたお方です。苦難や不安から逃れる事が出来たはずなのに、そうしなかったお方です。不安と不足の中でも、イエス様は神様のことを見続けたお方です。神様がいま何をなさろうとしているのかに焦点を合わせ続けたお方です。

苦難と苦しみの中で、神の働きを、神の恵みを、神の導きを求めたがのが、イエス様です。そこから逃れる、相手を打ち破るのではなく、その中に神様の導きを見つけようとしたお方です。十字架の中に私たちは見つけます。それはどんな時も神を忘れないイエスの姿です。ヨハネ福音書によれば、イエス様は十字架でこうおっしゃって息を引き取られました19章30節「成し遂げられた」、そう語って息を引き取られたのです。十字架の上の、最後の一息まで、イエス様は神の働きを見続けたのです。

イエス・キリスト、それは十字架の最後まで、苦難にも関わらず神を見続けたお方です。不安ではなく、神を見続けたお方です。そして私たちにもそのように歩めと促しておられます。不安の只中で、十字架のイエス・キリストを、それが指し示している神を見よと、私たちは語り掛けられているのです。

 

不安が先立つ今の時代に、私たちはもう一度、イエス・キリストを覚えたい。不安ではなく、恵みに、不安ではなく神に目を向けたいと思うのです。私たちは出来ない事ではなく、礼拝に、神に目を向けたいと思うのです。私たちは不安の中で暴力と犠牲を選びません。イエス・キリストを礼拝することを選ぶのです。

 

私たちは今日、また1週間それぞれの場所へと出てゆきます。出発をするのは、私たちもイエス様も同じです。私たちもまた、神様の示した場所へと進んでゆくのです。不安ではなく神を見つめ、委ね、続け歩みましょう。