【全文】「礼拝は歌う」出エジプト15章20節~21節

 

みなさんおはようございます。今日もこうしてそれぞれの場所で、そしてインターネットで礼拝をできること、感謝です。私たちは子どもを大切にする教会です。こどもたちも一緒に礼拝をしましょう。私たちは今礼拝とは何かを12回シリーズで考えています。礼拝は一番大事、礼拝は順序が大事、礼拝は招き、礼拝は共同体作りとみてきました。今日は「礼拝は歌う」ということを考えたいと思います。

教会にはたくさんの芸術があります。たとえば音楽、生け花、書道、絵画、礼拝堂のデザインも芸術です。たくさんの芸術にあふれています。私たちは今インターネットの礼拝をしていますが、そこで補えないものがいくつかあると思います。交わりや献げ物が出来ないということもありますが、こういった礼拝の中の芸術にふれることが出来ないことも、それぞれの礼拝、インターネット礼拝の寂しさの一つかもしれません。

いまそれぞれの場所で礼拝することで、教会には芸術が溢れていたということに気づかされています。いままで、私たちはその芸術に囲まれた中で礼拝をしていた、み言葉を聞いていたということ、それぞれの自宅で礼拝する時に気付くのです。そして同時に、あの芸術たちは教会にとってどんな意味があったのか、そのひとつずつがどのような意味や効果があったのか、考えなおす時を頂いています。

たとえば礼拝に一切の芸術がなかったとしたらどうでしょうか。もちろんそれでも礼拝は礼拝であり続けます。礼拝は芸術が無くなったとしても成立をするのです。しかし私たちはこれらの芸術を、礼拝の中に選び取っています。音楽は、教会がもっとも大切にしている芸術のひとつといえると思います。私たちは教会に来る時、聖書と賛美歌集をもって教会に来るのです。そして礼拝が始まる前に讃美歌の練習をします。教会には聖歌隊があり、オルガンがあり、教会のオリジナルの賛美歌もあります。そして礼拝の中で賛美歌を歌います。よく教会音楽と言いますが、それは礼拝のための音楽、礼拝音楽とも言えるでしょう。今日はこの教会がもっとも大切にしている芸術、礼拝音楽について考えたいのです。

私たちはなぜ礼拝で歌を歌うのでしょうか。礼拝で歌うことは当然のことではありません。例えばマルティン・ルターで有名な宗教改革の時、これは礼拝改革でもあったわけですが、礼拝の音楽についても様々な意見が出ました。

実は当初のバプテストは、礼拝で賛美を歌うかどうか熱心な議論がありました。どうして賛美歌がいらないと考えたのか、いくつか理由が挙げられています。バプテストが反対したのは、自由に関わる問題だったからです。一人ひとりの信仰を大切にするのがバプテストです。他の人が決めた歌詞と旋律を全員が一斉に歌うことは、歌の作者や選曲をした人からの信仰の押し付けだ、個人の信仰の自由を侵すと考えたのです。個や自由を大切にするバプテストらしい主張だと思います。

他にも歌は人を熱狂的にさせ自己満足に陥らせ、かえって神を見失うからだ言った人もいます。歌は自己満足やストレス発散になるのだけれども、それが目的になってしまって、かえって神様を見失うことになるのではないか、そう批判して歌わない選択をした人々も多くいたです。歌は危険だと指摘します。

実は歌を歌うことは危険です。歌っているうちに、いつのまにか賛美歌の対象が神様であることを忘れてしまうことが起こるからです。神様を見失って歌うようになってしまうことがあります。時には間違った目的のために賛美が利用されるときがあるのです。

例えば、マルティン・ルターは宗教改革者の中でもっとも音楽を愛した人です。彼の造った「神はわがやぐら」という曲があります。新生讃美歌538番の有名な曲です。聞いてみましょう(再生)。大変よい賛美歌ですが、この曲は第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの思想、ユダヤ人虐殺を後押しするものとして利用された曲です。ドイツだけではありません。日本でも戦時中「戦時讃美歌」というのもが作られ、礼拝の中で戦争に賛成する歌がしきりに歌われました。賛美歌が間違った目的のためた例です。私たちも、なぜ歌うのか、何を歌うのかをしっかりと考えて歌わなければ、歴史の過ちを繰り返すでしょう。

私たちはなぜ歌うのでしょうか。今このコロナの影響で共に歌うことができない私たちです。でも感染の拡大が終息すれば、私たちはまた必ず歌を歌うでしょう。私たちは自由や、自己満足や、神を見失うという危険を冒してでも歌うことを選ぶでしょう。

でももう一度、歌うということを選ぶ前に、確認しておきたいのです。それは音楽や歌は自己表現や自己満足、ストレス発散、あるいは自己陶酔が目的ではないということです。

私たちはなぜ礼拝で歌うのでしょうか。礼拝の中で歌うのは、神の素晴らしさを表すためです。その手段が音楽です。神様の素晴らしさを表現するために歌があるのです。音楽は礼拝の助け、手段です。教会の様々な芸術が礼拝の助けとなると言えるでしょう。花や書道や絵や会堂、踊り、楽器。礼拝では様々な芸術によって、神様の素晴らしさを現わすことができるのです。

しかし私は「歌う」ということにまさる、神様の素晴らしさを表す方法、芸術はないと思います。礼拝の中で歌う理由はいくつかあります。

礼拝の中で歌う理由の一つは、歌うことが私たちの共同体を現わすからです。皆さんは歌は何に合わせて歌っているでしょうか。私は奏楽に声を合わせているつもりです。しかし奏楽者は何に合わせているでしょうか。機械のように楽譜どおりにひくだけではありません。それが歌いづらいことを今私たちは実感しています。奏楽者は会衆の声に合わせています。私たちはお互いに合わせています。そうやってお互いに合わせることでひとつの美しいメロディーになるのです。歌を歌うと、一つの共同体になることができるのです。

そしてもちろんその歌は神様の素晴らしさを現わしている歌です。私たちはお互いを意識しながら、神様を素晴らしいと歌っているのです。私たちは神を讃えるために、神様の素晴らしさを表すために、互いの声を聞き、声を合わせ、奏楽に合わせ、神に歌うのです。それが歌う目的です。歌を選ぶ理由です。お互いの、左右の矢印と、下から上への矢印が同時に表現することができるのが賛美歌です。様々な危険に注意しながら、私たちは礼拝で神様の素晴らしさを歌うのです。また集った時、礼拝で一緒に歌いましょう。

様々な芸術があります。その中で教会は特に歌を大切にします。それは皆が互いの命を感じ、神の民がそろって神様の素晴らしさ表すことができるからです。

 

 

今日の聖書の個所を見ましょう。聖書にはたくさんの芸術、特に音楽があり、いろいろな楽器が登場します。今日の芸術はダンスと楽器と歌です。マリアムは踊って神様の素晴らしさを表現し、楽器を使って神様の素晴らしさを表現したのです。小太鼓とありますが、これはタンバリンだったと言われています。(タンバリンを見せて)これです。今日私は踊りませんが、今日の個所によれば、楽器をならして、踊ること、その芸術によって神様の素晴らしさを表現したのです。神様を賛美したのです。

そしてミリアムたちは歌ったともあります。ミリアムはみんなに合わせて歌いました。そしてみんなはミリアムに合わせて歌いました。神の民のすべての人々が声を合わせて、体を動かして、神様の素晴らしさを現わしたのです。そこには危険もあったでしょう。踊ることで自分が気持ち良くなったり、ストレス発散になったりして、かえって神様を忘れることになる危険もありました。

でも彼女たちはその踊り、歌をしっかりと神様に向けて歌いました。その芸術はしっかりと神様に向けられました。それは神様の素晴らしさを表し、私たちの共同体を表現していたのです。

歌の内容にも目を向けましょう。歌った内容は出エジプトの出来事でした。神の力によって海を渡ることができた出来事です。自分たちの道が守られて開かれた出来事です。彼女たちは神様がなさった奇跡をそのまま歌にしました。そう、神様への歌は私がどうやって歩むかという決心も大事ですが、ここで歌われているのはそのような私たちの決心ではありません。

ここでは神様の働き、そのものを歌われているのです。神のなさったこと、神の業そのものがここで歌われているのです。これが賛美歌です。神様に歌によって表す第一のもの、それは私たちの決心ではありません。それは神様の素晴らしさです。まず神様の素晴らしさを表わす、それが私たちの賛美なのです。様々な歌、特に新生賛美歌は応答や伝道に関する曲が多いですが、まずその曲も神さまの素晴らしさを表すところからきているのだという事を覚えていたのです。

そしてこのミリアムの歌を見ましょう。この歌は感謝の歌でもあります。苦しい時に、守りを願って歌ったのではなく、かつて守られたことを振り返り、感謝して歌ったのです。私たちの今と、重なります。私たちは今集まって共に歌うことが出来ません。苦しい時にいます。でもいつか必ずまた賛美を歌うことができるようになります。その時、神様に精一杯の感謝の歌を捧げましょう。苦しい時に神様へ祈るだけではなく、乗り越える事が出来た後、今日のミリアムように再び集うことが出来た時に、神様への感謝をまた歌で表したいのです。

 

私たちは一緒に新しい歌を歌いましょう。新しい歌それは、新曲という意味ではありません。それは私たちが歌う、ストレス発散の歌ではなく、それとはまったく違う新しい歌です。新しい気持ち、新しい感謝をもって歌を歌いましょう。その歌は互いの声を聞きながら、互いの命を感じながら歌いましょう。そして、なにより神様にむけて、賛美をしましょう。

 

お祈りします。