「礼拝は派遣」マタイ28章16節~20節

私たちは礼拝をテーマに宣教をしています。今日は祝祷について考えたいと思います。私たちの教会では次の様に祝祷がされています。

 

「私達を礼拝に呼び集められた神様。あなたは今、私達をそれぞれの場所へと派遣されます。私達は主なる神を愛し、隣人を愛しましょう。主なる神に仕え、隣人に仕えましょう。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、派遣される私たちと共に、また小さくされた者と共に、全世界のあらゆる命と共に、豊かにありますように。アーメン」

 

この祝祷、いったい何がされているのでしょうか。祝祷の中でされていることは大きく分けて二つです。ひとつは祝福の宣言、もうひとつは派遣です。この祝祷は第一に神様の祝福を宣言するものです。宣言とは神様の愛が私たちに一方的に注がれる。すでに、そしてこれからも注がれるという宣言です。

さらに祝祷の一番大きな意味は派遣です。礼拝は招きで始まり、派遣で終わるのです。礼拝は招きと派遣の繰り返しです。私たちの礼拝と生活は決して切り離されたものではなく、その往復によって信仰に生きるのです。

さて今日の個所を読みましょう。イエス様は集まるように指示されていました。それは神様の招きです。そして人々はひれ伏しました。「ひれ伏した」は礼拝をするという意味です。イエス様に招かれて礼拝をしていたのです。もちろんその集まりは、熱心に信じる者の集まりであると同時に、信じ切ることが出来ない、疑いや不安を持った人々集まりでした。私たちと同じです。招かれ礼拝する、信仰と疑いをあわせ持つ私たちです。

イエス様が大事になさったのは、弟子になるということです。私たちが求められているのは、どこに派遣されてもイエス様の弟子であり続けることです。私たちが他の誰の弟子にもならないことです。

弟子として歩むとはどんなことでしょうか。私たちは祝祷で「私達は主なる神を愛し、隣人を愛しましょう。主なる神に仕え、隣人に仕えましょう」と言っています。これが弟子として歩むことではないでしょうか。弟子になるとは神を愛し、隣人を愛することです。神に仕え、隣人に仕える事です。

私たちの礼拝はその終わりに、祝祷をします。それは神様の恵みの宣言です。そしてこの地上へもう一度派遣されることを示すのです。派遣した先で、弟子として生きよ。そのように私たちは、神様から送り出されているのです。そして私たちは1週間を弟子として生きるのです。

そして聖書によれば、イエス様は派遣されると同時に、いつでもわたしたちと共にいて下さるお方でもあります。イエス様は私たちを派遣されると同時に、一緒に私たちと歩んでくださるお方、インマヌエルのお方なのです。

神様は招き、派遣し、共にいて下さるお方です。その恵みを頂きましょう。