【全文】「礼拝は一緒の食事」Ⅰコリント11章17節~22節

 

みなさんおはようございます。今日から7月の礼拝、一緒に賛美できるのはいいですね。「礼拝は歌う」です。私たちは、一度は中止していた賛美を再開することを選びました。歌うのはストレス発散になり、気持ちいいものです。でも私たちはこの歌を互いの声を聞きながら、互いの命を感じながら、そしてなにより神様にむけて、賛美をしています。その恵みに感謝です。今日からまた教会が、一歩通常に戻ります。礼拝以外のことも、もう少し時間をかけて戻してゆきたいと思います。私個人としては早く皆さんと食事をしたいという願いを持っています。

こどもたちも集まってくれました。平塚バプテスト教会は子ども達を大切にする教会です。子ども達の存在も感じながら、礼拝をしてゆきましょう。そして今日で12回シリーズの「礼拝は〇〇」というテーマの宣教は最終回です。

今日皆さんと一緒に賛美するのは4か月ぶりですが、主の晩餐をするのは2月の礼拝が最後ですから、実に5か月ぶりとなります。コロナの期間、それぞれの自宅で礼拝を守るとした平塚教会では、主の晩餐を一時中断していました。その期間パンとぶどう酒のカードを送ってみたりもしました。後から他の教会に聞いてみますと、主の晩餐をインターネットでする教会もあったそうです。リモート主の晩餐でしょうか。方法は様々で、それぞれがパンとぶどうジュースを買ってきて画面の前で食べたり、教会で行われる主の晩餐の様子を配信したりしたそうです。

もとより主の晩餐の在り方はというのは驚くほど多様です。同じキリスト教でもカトリックは毎週行い、これを礼拝の中心としています。プロテスタントは月に一度という教会が多いですが、月に一度という明確な理由はありません。毎週では恵みを忘れてしまうので、月に1回としています。それでも多いので年に数回とする教会もあるそうです。またバプテストの教会なかでも多様です。主の晩餐の時は牧師がガウンを着る教会もあります。あるいはオープン、クローズという違いもあります。どのような頻度や方法で行っていくかは、主の晩餐とは何かという理解の違いともいえるのでしょう。

私たちも70年間この主の晩餐を繰り返してきましたが、初めてできない期間に直面しました。皆さんは主の晩餐ができないことへのもどかしさや、喪失感はどれほどあったでしょうか。実は私はあまり感じないのです。どうしても早く皆さんと主の晩餐をしたいとは、残念ながら感じなかったのです。礼拝をしたい、会いたい、賛美したい、食事したいとは思いました。でも、主の晩餐をしたくてたまらない。そういう気持ちには不思議とならなかったのです。私が不信仰で無理解なところもあるでしょう。しかしそれが正直なところです。私は、いえもしかしたら教会も、主の晩餐を不要不急としてきたかもしれない。本当は礼拝に欠かせない要素である主の晩餐を、無意識に繰り返していたかもしれない、私はそのような自分の気持ちに気づかされました。今日もう一度、この主の晩餐のパンとぶどう酒を頂く前に、一体何がここでされているのかを確認しておきたいのです。

私たちは主の晩餐、一体ここで何をしているのでしょうか。先ほどもお伝えした通り、主の晩餐の理解には大きな幅があります。見てわかる部分だけでも、パンは種無しパンか、食パンか。来会者にオープンかクローズか。ぶどう酒はジュースか、ワインか。目の前でパンをちぎるのか、あらかじめ切れているのか。様々な違いがあります。私自身はバプテスマを受けていない方や子ども、すべての人がパンを受けてよい、そして毎週したいと考える、いわゆるオープンな立場です。このように教会の中でも理解は違います。もちろんこれは私個人の理解でするものではなく、教会の業です。平塚バプテスト教会では、これに預かるのは洗礼・バプテスマを受けた方にクローズしています。そして限定するだけではなく、どの教派に属していても参加できるとオープンにしています。

あまりに多様である主の晩餐。でも久しぶりの主の晩餐を、今日、ともに考えたいのです。

まず初代教会がどのように主の晩餐を持ったのかを見てゆきましょう。初代教会では主の晩餐は、今でいうところの愛餐会・食事会でした。礼拝の奉献の時に持ち寄ったもので食事をしていたのです。それが主の晩餐の原型です。最初はとにかく全員でとる賑やかな食事だったのです。

どうして礼拝で食事をしたのでしょうか。それはイエス様との食事を元にしています。聖書にはイエス様がいろいろな人と食事をした場面が出てきます。関わらない方がいいと言われる罪人や外国人と食事をします。関わるにはふさわしくない、神の恵みにはふさわしくないとされた者と、その垣根を超えて、分け隔てのない食事すること、それがイエス様の運動だったのです。一緒にご飯を食べるのが、イエス様の愛の運動だったのです。そのことを初代教会は忘れずに、みんなで賑やかに食事をしていました。

聖書には様々なイエス様の食事を描いています。主の晩餐は大きく分けて4つの食事のモチーフがあります。罪人との食事、最後の晩餐、復活後の食事、奇跡の食事です。礼拝の中に食べるということがあるのは、これらの4つの豊かな意味を含みます。だからこそ多様なのです。イエス様としたさまざまな食事にルーツを持つ礼典、それが主の晩餐なのです。

食事の記憶、それは私たちの記憶にしっかりと焼き付くものです。南小会室で一緒に食べた食事、なんと懐かしいことでしょうか。私は正直に申しますと、主の晩餐の喪失感よりも、礼拝後の食事が無いことの喪失感が私にとっては大きいのです。そう、きっと私たちが一緒にしていたあの教会のお昼ご飯は、イエス様との食事、主の晩餐だったのではないでしょうか。礼拝の中の主の晩餐にもきっとそんな恵みが隠されているのです。 今日の聖書の個所から、その恵みを見てゆきましょう。

 

当時コリント教会でも礼拝で主の晩餐、食事が行われていました。しかし、そのコリント教会の主の晩餐に対してパウロが「それでは主の晩餐にならない」と手紙を送っています。一体何が起きていたのでしょうか。

キリスト教は当初、貧しい人々に伝わっていきました。だから礼拝の食事とは本当に食べ物の分かち合いだったのです。みんなで食事をとっていたのです。しかし徐々にお金持ちも共同体に加わるようになります。その人たちはなんと先に食事を始めてしまうのです。そして例えば働いてから礼拝に集ってきた、遅れて来た貧しい人がいたとします。彼らは空腹です。しかしその時すでに、食べ終わっている人がいて、満腹し、酔っている人がいたのです。

貧しい信徒はどうしたでしょうか。金持ちの食べ散らかした、そのあまりものを食べていたのです。パウロがわざわざ手紙で怒っているのはそんな主の晩餐の在り方です。そんなんじゃ主の晩餐にならないというのです。これこそ18節にある仲間割れです。パウロは金持ちのそういう食事は家でしろと言います。22節「あなた方に家があるでしょう」のこの家は複数形です。家々をたくさん持っているにもかかわらず、分かち合わずに、先に食べる人たちに、家で食べろと言うのです。

少し先の28節にある「誰でも自分を良く確かめなさい」とはこのことです。確かめるのは、自分だけ良ければいいや、食べてない人がいるかどうかなんて関係ない、えい自分が全部食べちゃえ。そういうことが無いかをよく確かめながら、主の晩餐をしなさいと言うのです。

ですから主の晩餐は1か月の個人的に罪を犯してないか、ふさわしいか確認して食べる、自己吟味をして食べるという意味だけにはとどまりまりません。食べれない人が周りにいないか、まだ食べてない人がいないか、ちゃんと確認して食べようということです。一緒に食べようということです。

ここで求められるのは自己吟味だけではありません。いわば共同体吟味です。私たちがその食事を分かち合う群れになっているか、共同体を点検する、吟味する、そのことがこの食事では求められているのです。互いに仲間割れが起きていないか、配慮しあう、祈りあうことができる共同体か、そのことが吟味される食事なのです。主の晩餐、それはイエス様との食事です。イエス様が私を食事に誘ってくださる恵みです。イエス様との濃厚接触です。イエス様とのいろいろな食事を、それぞれ思い出しながら、記念しながら、食べてゆくのものなのです。

共同体を吟味する。もちろんそれは礼拝共同体の吟味です。礼拝する共同体になれているかどうかの吟味です。そしてその吟味をするとき、それは教会の内側だけに留まらないでしょう。私たちの人間の共同体で、この地域や世界で仲間割れが起きていないかを点検し、吟味することに広がるでしょう。それが毎回の主の晩餐で行われることです。

私たちはこの主の晩餐を礼拝の中で70年間続けてきました。礼拝の中でイエス様とのさまざまな食事を思い出し続けていました。今日もイエス様とのあの食事、それぞれに思いだしながら食べましょう。そしてこれはみんなで一緒にする食事です。私たちの仲間のことも、世界のことも思い出しながら食べましょう。それは礼拝の中で欠かせないものであるはずです。

さて、私たちは礼拝について、3か月ほど共に考え続けてきました。どのような事をお感じになったでしょうか。礼拝は一番大事、礼拝は順序が大事、礼拝は招き、礼拝は共同体作り、礼拝は歌う、礼拝はこども歓迎、礼拝は平和の集い、礼拝はみ言葉が中心、礼拝は献身、礼拝は派遣、礼拝は続く、そして礼拝は一緒の食事です。

礼拝とはなんと豊かなものでしょうか。そして礼拝とは何と多様なものでしょうか。私たちは礼拝の何を忘れ、何を思い出したでしょうか。何を守り、何を変えてゆくのでしょうか。これから共に考えてゆけたらと思います。学ぶだけで終わりではなく、日々の新しい礼拝につなげてゆきましょう。

皆さんの中でもお一人ひとりの中でもこの礼拝を思いめぐらせて続けてください。お祈りします。