【全文】「70年間の目的地」ヨハネ6章16節~21節

 

みなさんおはようございます。今日も共に礼拝出来る事、その神様の招きに感謝します。共に集うことができることを嬉しく思います。また今日も子ども達が集ってくれています。私たちは子ども達を大切にする教会です。共に礼拝をしてゆきましょう。

私たちは今年度で70周年を迎えています。この宣教で3回、70周年について語っています。1回目は「70年間の勇気」神様が70年平和を語り続ける勇気を下さったということ。また2回目は「70年間の無力の強さ」無力な私たちに神様が力を与え続けてくれた70年だったということを見てきました。今日は「70年間の目的地」私たちは70年間、何を目指して歩んできたのかということ、それは成果ではなく、イエス様と出会うことが目的だった、イエス様と出会ったその場所が私たちの目的地だということについて、考えたいと思います。そしてそれを小田原伝道所という出来事から考えてゆきたいのです。

1990年頃バプテスト連盟全体では500の教会と5万人の信者を目標とする「500と5万」が目標とされました。そして500の教会を作る方法として、「母教会主義」が取られていました。それまで教会の開設は連盟が主導的に教会を開設してゆくこと、牧師が一人で伝道をはじめてゆくことが多かったのですが、徐々に教会が教会を生み出してゆくという方法に変わってゆきました。既存の教会のメンバーの一部が株分けされて、近隣に新しい教会を生み出してゆくという形式です。母教会(親教会)と呼ばれる教会が主体的に、責任を持って教会を開設してゆくという方法です。

この近くでは戸塚教会がそうです。1983年に東京の恵泉教会と藤沢教会が母教会となって戸塚伝道所を開設しました。戸塚伝道所は4年後の87年には自給自立できる規模となり、戸塚教会として教会組織がされました。そのように「母教会主義」という方法で教会の開設がされてゆきました。

その後2000年代になると、徐々に、人数や教会の数を目標にするのではなく、小さくされた人と共に生きる、分断や差別を超えてゆくということを目標にしています。数値が目的ではなく、どのように寄り添うのかということに目的が改められ、今に至っています。

90年代、平塚教会もこの流れにあったのでしょうか。平塚教会にも小田原伝道所のビジョンが与えられました。1991年から検討が始められ、1993年6月小田原の地へ根付こうと、小田原伝道所が開設され、礼拝が始まりました。この歴史を調べていますが、やはりこれにも資料に限りがあります。

しかし限られた資料中ではありますが、小田原伝道への熱意が込められている文章は少ないように感じます。むしろ開設に向けた戸惑いや心配の声が記録として多く残されています。しかし、その中でも平塚教会は伝道所開設へと踏み出しました。そういうチャレンジするところが大好きです。平塚教会が母教会として、小田原伝道所を開設しました。

開設翌年には、引退された川上牧師が小田原伝道所の牧師となられます。当初は平塚教会からかなりの財政支援をしており、年間240万円の支援の記録があります。その後20年ほど小田原伝道所は続いたのですが、しかし他の教会組織をできた伝道所と違い、人数は当初の10名ほどで推移したまま、なかなか自立した教会組織、財政的な自立には至りませんでした。

そんな中、小田原伝道所では川上牧師が退任されることとなります。小田原伝道所が、牧師をどのように招聘してゆくかを考える中で、バプテストにこだわるかどうかが課題になった様です。

2011年には小田原伝道所から平塚教会との関係、バプテスト連盟との関係を解消したいと申し出がありました。平塚教会は残念な思い持ちながらも、小田原伝道所の意思として尊重しました。小田原伝道所は単立の教会として歩みを始めます。その後聞くところによれば、現在では小田原教会は役割を終えて、今は礼拝などの集会を持っていないとのことです。

小田原伝道所と平塚教会の関係は、資料を見ていると結束した堅い関係だったようには感じません。開設数年は頻繁な往復が記録されていますが、年々減少してゆきます。10年ほどたつと顕著に距離感が出てくる様子が見て取れます。どのような理由で距離感が生まれて来たのかは分かりませんが、両方の教会に課題や痛み、葛藤があったのでしょう。総会資料を見ると、そのように思います。

平塚バプテスト教会としては当初の目的を達成することができませんでした。伝道所を成長させ、教会として地域に定着させてゆく、500の教会の一つにする、自立自給させてゆくという目標は達成できませんでした。

この取り組みは失敗だったのでしょうか?〇×をつけたいわけではありません。歴史を振り返りたいのです。私たちはあの時何をしようとしていたのか。目的がなんだったのかを考えたいのです。それは少なくとも伝道所に人が満たされることではなかったはずです。もちろん多くの人に伝えたい願いはありました。

しかしもう一度私たちの目的、思いがなんだったのかを考えたいのです。私たちが小田原伝道所を出した目的はなんだったのでしょうか。それはその過程で人々と出会うこと、そしてイエス様と出会うことではなかったのでしょうか。

小田原伝道が成功か失敗かではなく、私たちはその過程で、人々に、イエス様に出会うことができたのかどうか。私は歴史からそのことが問われているのではないかと思います。

そして今の私たちの教会も同じです。人数が、数がということ以上に、この歴史の中でどのように、平塚の地域の人々に、そしてイエス様にどうやって出会うことができたのか、それが問われているのではないでしょうか。

 

今日の聖書個所を読みましょう。今日の個所は1月の聖書教育でも読んだ個所です。Aさんから「船」と「舟」の違いは何かと質問をいただきました。舟は小さい舟を表す漢字で、聖書では小舟と訳す場合もあります。それは小さな舟だったのです。弟子たちその舟で向こう岸に漕ぎ出そうとします。彼らの目的地は17節カファルナウムです。

実は「舟」という言葉が今日のキーワードです。いつからか人々はこの聖書個所の舟とは教会の事だと理解するようになりました。小さな舟が暗闇を漕ぎ出してゆく、教会は小さな群れとして暗闇に漕ぎ出すのです。

しかし湖は荒れ始めます。19節25スタディオンとあります。この湖の幅は狭い場所でも60スタディオンくらいあります。つまり25スタディオンとは、湖の真ん中を指します。湖の真ん中、引き返すことも、向こう側を目指すこともできない一番危険な場所で、彼らは強い風に会うのです。漕ぎ出した舟はまるで私たち平塚教会の様であり、小田原伝道所のようでしょうか。沈まないように、目的地へと向かって、力を合わせて漕ぎ続けるのです。

そこに不思議にも、イエス様が湖の上を歩いて現われます。彼らは恐ろしくなりました。この個所、イエス様の水上歩行は不思議な奇跡です。でも、もう一つ不思議な事が起こっていることを見逃さないでください。それは21節「イエス様を迎え入れようとすると、間もなく、舟は目指す目的地についた」ということです。

イエス様を受け入れようとしたら、いつの間にか目的地だったのです。残りの道はどうしたのでしょうか。水上歩行よりも、瞬間移動の方が大きな奇跡でしょう。

しかしもしかすると、イエス様に出会う時、不思議と私たちもそんな経験をするのかもしれません。イエス様と出会った時、そこが私たちの目的の地だったということです。私たちはどこかを目指して、舟を漕いでいるのかもしれません。目標を目指しているのです。しかし、本当に私たちの目指す場所は、イエス様と出会う場所です。私たちの決めた目標が目的地ではなく、その途中でイエス様と出会った場所が目的地になるのです。

イエス様は「私だ、恐れるな」と言います。この物語は水の上を歩いたという奇跡に目を奪われがちです。でもそこを恐れるなと言います。指し示されているのは、「私だ」という言葉です。そうイエス様との出会いを見よということです。様々な出来事が、私たちの歴史の中にはあります。恐れるような事、奇跡のような事があります。そしてその時、その事柄だけではなく、そこにどのようにイエス様との出会いがあったのかを見よとイエス様は言うのです。イエス様は私たちの70年間の中にも確かにおられました。でもそれは私たちの目的とした場所とは違う所におられたのかもしれません。

私たちの目的地、目指す場所、それは活動目標の達成ではありません。その途中にある、人生の途中に、突然起こる、嵐の中でイエス様との出会うということ、それが目的地です。そこが私たちの目的地です。私たちの歴史をそのような視点で見つめてゆきたいのです。大切なのはそのことです。

私たちは舟です。出発した70年間、様々な目標を持ちチャレンジをしてきました。目標が達成できたこと、できなかったこと、どちらもあります。その歴史には成功も失敗も、奇跡も困難もありました。でも大切なのはその旅の途中で、イエス様と出会うということです。「私だ」というイエス様と出会うことです。目的地それは、イエス様と出会った場所です。私たちがどこを目指そうかそれは関係ありません。イエス様と出会う時、そこが本当の目的地になるのです。

私たちの歴史にはこれからもチャレンジがあるでしょう。その中の嵐を大事にしましょう。きっとイエス様との出会いが隠されているはずです。そして私たち一人ひとりの人生も同じでしょう。目標、なりたい自分、それを一生懸命目指します。でもたとえそれができなかったとしても大事にしたいのはイエス様との出会いです。それが私たちの本当の目的地だからです。お祈りします。