【全文】「力を誇示しない平和の神」ヨハネ7章1節~17節

皆さんおはようございます。今日も共に集うことができたことに感謝です。日に日にコロナの感染拡大が進み、平塚市でも感染が報告されています。十分に注意をしながら共に礼拝をしてゆきましょう。また再び集まらずに、それぞれの自宅で礼拝を献げようという日も来るかもしれません。あの日々を思い出します。集まれる恵みを一回一回、大事にしながら礼拝をしてゆきましょう。

子ども達も礼拝に集ってくれています。今私たちは平和をテーマに8月の礼拝を持ちます。子ども達が健やかに育つために一番必要なのは平和です。子どもを大切にし、平和を大切にする教会として、共に礼拝をしましょう。

8月15日は敗戦記念日です。75年前日本全国は焦土と化し、もはや戦争継続は困難でした。玉音放送が流れ、天皇が戦争を止めると宣言し、日本は無条件降伏をしました。

その前の8月6日には広島に、8月9日には長崎に原子爆弾、核爆弾が投下されました。この核爆弾、原爆投下が戦争終結を早め、多くの人を救ったと考える人もいます。本土決戦になったらより多くの人が犠牲になった、それをこの原爆が止めたというのです。原爆はしょうがなかったという理論です。昭和天皇が、天皇がそれを言うのかとも思いますが、天皇も原爆は「広島の人には気の毒だが、やむを得なかった」と言っています。

私はこの歴史、犠牲もやむなしだったとは思いません。ましては最高司令官だった天皇がそう振り返ることには怒りも覚えます。私はそもそもこの原爆投下は必要なかったと理解しています。実際当時のアメリカも良く日本の状況を知っていました。食糧確保もままならず、もうすぐ日本は降伏する、11月には降伏するとアメリカはわかっていました。しかし降伏まであと3か月という所で、日本に最新・最強の兵器が使われたのです。

原爆の目的は戦争を早く終わらせるためではありませんでした。ではなぜ原爆を投下したのか、それはこの核兵器の威力を世界中に見せつける事で、戦後の国際覇権を自分たち、アメリカのものとするために使われたのでした。つまりアメリカは、戦後ソ連より優位に立つために、日本に原爆を投下したのです。戦後の世界を主導するのはソ連ではなく、アメリカだ。そのようなアピールをするために、原爆は私たちに落とされたのです。だからソ連も、その後を核兵器の開発を急ぎ、そして冷戦時、核開発競争になってゆくのです。

もちろん日本はただの被害者ではありません。当時の日本もアジアを徹底的に侮辱しました。それは本当に必要のなかったことです。ただ力を見せつけ、支配すること、奪い取る事が目的でした。

戦争とは何でしょうか。それは互いが互いの力を見せつけ合う事です。なるべく自分を強く、大きく見せるために人を殺す、それが戦争です。

人間は、戦争中も、戦争が終わるときも、戦争が終わった後も、圧倒的な力を見せつける事で、物事を動かそうとしてきました。いまもまだ同じです。最新の戦闘機や経済力やあるいは技術力を見せつけて、相手を従わせようとしています。

日本は戦後、平和を誓いました。日本はこの、強さを誇示した歴史を反省しました。だから憲法の前文にはこうあります。「われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。」。

力を誇示し、見せつけ相手を動かすのではなく、私たちは平和を守る事、抑圧から解放され、解放を手伝う事、そのことで名誉を受けようというのです。力の誇示ではなく、抑圧からの解放、平和に資することによって、国際社会で名誉ある地位を占めたいと願ったのです。この決意を大切にしたいと思います。

そしてこの憲法の精神は、私はイエス・キリストの願う平和と重なる部分が多いと思います。イエス様の願う平和も見てゆきたいのです。

 

今日の聖書個所を見てゆきましょう。兄弟たちはイエス様にこう言います。(3節)あなたのしている業をガリラヤの田舎者ではなく、エルサレムの神殿の人たちにも見せてやりなよ。(4節)こういうのは、自分の力をはっきり世間に見せつけた方がいいよというのです。

兄弟たちは、イエス様を信じていなかったとあります。なぜ信じてもいない人が、みんなに見せてこいというのでしょうか。これは、その奇跡を皆の前で見せつけて来いと言うことです。兄弟たちは、みんなの前で奇跡を起こしたら、圧倒的な力を見せつけたら、みんなお前に服従するようになるよ。だからユダヤで、神殿で、力を見せつけてきなよ。そうイエス様を誘ったのです。

それは神様への信仰からの発言ではありません。彼らが頼みにしていたのは神様ではなく、力・パワーです。彼らは神様よりも、力を信じていました。神様はいてもいなくてもどっちでもいい、奇跡を起こす力さえあれば皆、その人に従うだろう。神様を信じていようが、信じていなかろうが、力に従わざるを得ないだろう。兄弟たちはそうイエス様に勧めたのです。

イエスはきっぱりと断ります。私の時はまだ来ていないからといって、人々に奇跡を見せつける事をしないのです。イエス様はそれができたかもしれません。しかしイエス様は、自分の力を見せつけるという事に全く関心がありません。私の時はまだだと言います。まだとは、いつか来るということです。いつか私の力を皆が見るようになる時が来る、その時とはいつでしょうか。そう、その時とは十字架・受難の時のことです。

私がみんなの前に出てはっきり自分を示すのは、十字架の時だと言うのです。イエス様は圧倒的な力を見せつけることによって、人々を従わせようとはなさいませんでした。むしろイエス様が人々にはっきりと見せたもの、イエス様のその時とは、十字架でした。十字架という、苦しみの姿を人々に示したのです。

イエス様は強い姿ではなく、弱い姿を示しました。唾を掛けられ、みなに笑われた姿です。しかし、その時、十字架の時、ヨハネによればイエス様は「成し遂げられた」と言って息を引き取りました。イエス様が示したこと、それは十字架の出来事でした。イエス様はその時を待ち、自分を現わしたお方です。

ここに私たちはなぜイエス様を信じるのかということが隠されています。私たちがイエス様を、神様を信じるのは、どんな奇跡でも起こせるからではありません。パンを増やせるから、水の上を歩けるからではありません。

私たちが信じるのは、イエス様がつらく苦しい十字架の只中に、神様の力が働くと信じたからです。私たちもそれを信じるのです。イエス様はどんなに圧倒的な力、理不尽な力、それに打ち負かされようとも、必ずそこに神様の平和の力が働くと信じたお方です。十字架を通して、私たちもそれを信じるのです。

神様の力、それは復讐の力ではありません。平和を作り出す力です。その平和を作り出す力が、苦しみの只中に与えられる、イエス様がそれを信じ続けた、だから私たちも神様を信じるのです。

もう少し聖書を読み進めましょう。「祭りには行かない」イエス様一度はそう言ったはずなのに、やっぱり神殿に、祭りに向かいました。隠れて行ったのです。これは矛盾していると思います。行かないと言ったのに。密かに向かいます。そして人々に聖書を教え始めるのです。

しかしイエス様は気が変わったわけではありません。やはり力を見せ、一旗揚げようかと考えたのではありません。それは見せつける事とは違いました。イエス様が語れば、やはり「この人は勉強したわけでもないのに、聖書を良く知っている」という驚きの言葉が人々から出ます。でもイエス様はそこで自分の力を見せつけるお方ではありません。「これは神様がこうだと言っていることで、私自身の言葉ではない」と言います。自分の名声を挙げようとすること、そのことに反対するのです。あくまで自分ではなく、神様を指し示すのです。

そして、イエス様が一度は行かないと、きっぱり否定したけれども、やっぱり向かった、その場所にも注目をしたいのです。そこは分断と抑圧のある場所でした。そこは自分が信じていることを、恐ろしくて言えない場所でした。それを言ったら権力者・指導者に歯向かうことになるのです。そのことが恐ろしくて、イエス様の事を「良い人」とすら言えなかった場所です。

イエス様は自分の力を見せつけるためにはどこにも行かないと言います。しかし、抑圧の現場には現れるお方です。イエス様が現われたのは、それは祭りの真っ最中・祭りの真ん中でした。そして抑圧の真ん中でした。言いたいことも言えない、信じていることを信じていると言えない、イエスはその抑圧の真ん中に登場したのです。そして他の人が恐ろしくて言えないことを堂々と語ったのです。

イエス様はそのようなお方です。自分の力を見せつけることは拒否され、むしろ十字架でご自分を示すお方です。そして、抑圧された、不自由の中にも、そのまん中に現われて下さるお方です。そこで神様の言葉を私たちに語り、私たちに神様を示して下さるのです。

最後に、17節「この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。」とあります。同じことをイエス様は6節の後半でも語っています。「私たち時まだ、でも、あなたがたの時はいつも備えられている」という言葉です。

イエス様は私たちを具体的な行動へと招いておられます。私たちの時はいつも来ているのです。私たちが苦難に会う事、それはいつもです。その度に私たちには時が来ています。私たちは迫られているのです。力で、力を見せつけることによって対抗するのか、それともイエス・キリストの十字架で対抗するかをいつも迫られるのです。

力を見せつけることによって、軍事力によって世界を動かそうとすることに反対をします。世界に平和を作り出したいと思います。そしてそんなスケールの大きい事だけではなく、私たちの身の回りにできる事はいつも備えられているのではないでしょうか。私たちが見せつけられている力があります。いつもその時はきています。私たちに言葉を発せさせないような力、それはいつも来ています。それにイエス・キリストの十字架によって対抗したい。弱さの中に働く神の力によってむかってゆきたい、それが平和を作るのではないでしょうか。平和は力を誇示する場所には生まれません。平和は十字架から生まれるのです。共にイエス様からその力をいただいてゆきましょう。お祈りいたします。