「生活困窮の神」マタイ25章31節~46節

私たちの教会には生活困窮者のためのシェルターを持っています(場所は非公開)。今日出会った人をシェルターに泊めるのは、正直言って心配です。しかしそうしなければ、その方は野宿という危険な夜を過ごすことになります。本当は事情をよく聞いてからお泊めしたいのですが、疲れ果てている人に、一から事情を教えて欲しいというのは酷です。利用される方の多くは、安心するのか部屋に入ってすぐに眠ります。翌朝、着る物や食べる物を必要に応じて渡しています。

私たちがこの支援をするのは、困っている人を助けるためです。なぜ人を助けるのか、そこに目的は必要ありません。神様が造った命を守ること、助けることが目的だからです。私たちは礼拝参加などを条件にしていません。私たちは何かと引き換えに支援するではありません。

私がこの支援をするときに大事にしているのは、必ずこの方に神様の力が働いて、道が開けてゆくはずと信じて支援をするということです。多くの人は諦めや疲れを覚えてこの教会を訪ねます。でもその方の中に必ず神様の力が、必ず働くと信頼し、この支援を続けています。

きっと神様を知る方法は、聖書を読むことだけではないでしょう。そのような人との出会い、関係を通じても、神様はご自分の力を私たちにお示しになるのです。私たちはそのような人との出会いを大切にしましょう。

今日の個所にも生活困窮者が登場します。35節、ある人はこの人にできる限りの世話をしました。自らの危険を冒して助けたのです。おそらく支援を受けた人は、心身ともに休息の時間を得て、そこを旅立ちました。そして住居を提供した人は、何の見返りも求めませんでした。

私はこの物語から2つのことが大事だと思います。一つは住居を貸した側はあらゆる見返りを求めていなかったということです。もしかして助けたら、信者になってくれるかもしれないと思って助けたのではないということです。目的は助けることそのものだったのです。それは愛とも言い換えることができるでしょう。目的は愛そのものでした。愛を使って何かをしようとするのではなく、愛そのものが目的でした。

もう一つこの物語で大事なことは、私たちはどのように神様に出会うのかという問題です。私たちは聖書のみ言葉によってのみ神様と出会うわけではなく、困っている人との出会いの中で、神様に出会うのです。

この二つ、見返りを求めない事、神と出会う事は私たちのすべての活動に言えることでしょう。こひつじ食堂、こひつじひろば、サロン虹、炊き出しやバザー。教会にメリットがあるからやるわけではありません。今日の聖書の中の、助けた彼と同じです。ただ神の命のために私たちは働きます

そして私たちは教会の中でこそ愛し合いましょう。痛み悲しみを共に祈りあいましょう。そこで神様との出会いが起こされるでしょう。そして必ず神様がすべての人に力を与えてくださるはずです。