「泡沫候補のキリスト」マタイ13章53節~58節

 

『人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。」・・・このように、人々はイエスにつまずいた。』

 

平塚から総理大臣がでたら多くの人がそれを歓迎するでしょう。平塚はずっと河野一族の地盤です。それでも対抗して立候補する人のことを世間では「泡沫(ほうまつ)候補」と呼びます。とても差別的な呼び方です。負ける選挙に出る人はほとんどいません。もし私が立候補したら、絶対負ける、家族の恥、教会の恥でしょう。間違えなく「泡沫(ほうまつ)候補」です。

しかし今日の個所、実はイエス様もそれによく似た状況だったのではないかと思います。イエス様も泡沫候補だったのではないかと思います。それは神の子はこんな場所には生まれないとみんなが思う場所に生まれたということです。汚い、狭い、小さい場所に、神はいないと思う場所に生まれたということ、今日はそのことを聖書から読んでゆきましょう。

今日の聖書の個所をお読みしましょう。人々はイエス様を誇らしく迎えたのではありませんでした。まさしく「泡沫候補」として迎えます。こんな汚い村から、こんな小さな家から、世界を救う神の子が生まれるわけが無い、イエス様の話を聞いてなおそのように判断したのです。

「しかし」です。「しかし」まさしくここに神様の在り方が現れています。それがキリスト、神の子だったのです。神の子は人々がここに生まれたら誰もが神の子だと信じる、そのような場所、そのような家柄を選んで生まれたのではありません。とても受け入れることができない、場所に受け入れがたい方法で現れたのが神です。それが聖書の神様の選び方なのです。

イエス・キリストとはこのように私たちの常識を超えて現れるお方です。そしてまた時代を超えて、私たちにも現れ、共にあろうとしてくださるお方です。イエス様が生まれ、住まわれる場所、それは小さな私の中です。取るに足らない私に、神様は現れて下さるお方です。

そして神様はこの不完全な私たちをふるさととしてくださいます。神様を私の心にお迎えする準備、それは全くできていません。いつまでたっても狭くて、汚くて、小さい私です。私は神様の前でも泡沫候補です。でも神様は、そんな場所こそを選ばれるお方だと今日の個所は語っています。あなたを招けず、受け入れられず、自分の常識でしか測れない、落選確実の泡沫候補の私にこそ、神様は現れて下さいます。

泡沫候補であるキリストが泡沫候補である私に現れて下さったのです。それが起きる時は本当にうれしいことでしょう。その時こそ、うれしいクリスマスとなるでしょう。共にその時を待ち望みましょう。