【全文】「神を共に待つ」マタイ11章2節~19節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝をできること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。子どもたちの声を聞きながら、共に礼拝をしましょう。YouTubeで共に礼拝しておられる方も歓迎します。そして何より、今日は転入会の信仰告白の時を持ちました。今日こうして新しい信仰の友が与えられることに感謝をします。

先ほどの信仰告白には『私は神様を信じているのだろうかと気持ちがぐらつき、神様の前から逃げてしまおうかと思った』そんな時、平塚教会を知り『あまりにも自然に、信仰を行動で示されるみなさんの姿を目のあたりにしてから、そのようなことは脇に置いてもいいと思いました。まずみ言葉を聞きたい、そしてみなさんの行いに加わらせていただきたい』と思ったと、告白がされました。

自分の信仰のぐらつきを脇において、平塚教会の神様のための働きに加わろうと思っているという告白を聞いてどのように皆さんは感じたでしょうか。私がこの信仰告白を受けて感じるのは、私もまったく同じだということです。

実は私も信仰がぐらついている者の一人です。神様なんてこの世界にいるのかと問いたくなることが山ほどあります。聖書を読んでちっとも意味が分からない時があります。信じようと強く思えば思うほど、自分がそうできない弱い人間で、ちっとも良い人間でないことを知るのです。

でもそんな時、ここに集い礼拝することで何かが変わるときがあります。私の信仰のぐらつき、心の内側のぐらつきはいったん脇に置いて、集ってみるとき、共に礼拝する時間を持つとき、新しい道が開けることがあります。疑いながらでも、共にいる時間を持つということ、何かを一緒に取り組んでみるということは大事なことかもしれません。

自分は何を信じるのか、深く考えることも大事です。でもきっと考えているだけでは答えはでないでしょう。一緒に集ってみて、手を動かして、一緒にこの礼拝に参加してみて、一緒に祈ってみて、一緒に歌ってみて、一緒に神様の行いに加わってみて、実感できること、わかることがあるのではないでしょうか。

その点で教会は「信じている人の集まり」というよりかは、教会は「信じてなくてもいいから、まず集まってみてください」という集まり、それで良いのではないかと感じます。

信仰のことを仰々しく考えずに、まず集まってみる、参加してみるというのはどうでしょうか。一緒にご飯食べてってください。一緒にクリスマスを祝ってみてください。一緒に礼拝に参加してみてください。

私たちは外側から見ると、熱心に信じている者の集まりに見えるかもしれませんが、実はみんな確固たる信仰を持っているわけではないのです。実はみんな信仰が揺さぶられ、失敗が続き。立派に見えるあの人も、家庭では実は・・・。という人ばかりです。

一人一人集いながらも、迷いや悩みがあるものです。でもその中でも共に集まり、時間を過ごし、痛みや弱さを持ったお互いと共に過ごすことが、私たちは新しい一歩につながっています。この転入会を本当に歓迎します。そして他にも新たにこの弱き者たちの輪に入って、共に集ってくださる方、励ましあって下さる方を探しています。

私たちは今、「待つ」ということをテーマにアドベント・待降節をもっています。クリスマスまでの4週間を、イエス様を心に招く時として持っています。私たちは主イエス・キリストをじっと座って待つ、寝て待つのではなく、共に集まりながら待ちたい、集えることを喜びたいと今日、思うのです。

一人一人がそれぞれに待つのではなく、一緒に待つのです。一緒に祈りながら待ちましょう。共に礼拝に集いながら待ちましょう。励ましあいながら待ちましょう。アドベント、そのように一緒に待ちたいのです。共に祈って待ちたい、共に集って待ちたい、そして共に何かをしながら待ちたいのです。私たちはコロナで集まる喜び、共にいる喜びを知ったのです。

私は今日の個所もこのような場面だと私は思います。一人で待つのは寂しいものです。一人でいるなら信仰が揺れてしまうものです。でもイエスに従うという歩み、そして共に従うという歩み、共にその方を待つという歩みを聖書は語っています。今日の個所を共に見てゆきましょう。

 

 

今日はバプテスマのヨハネが登場します。彼は今、牢獄に捕らわれ、孤独の中にいます。捕らえられているのは、彼が王の結婚に反対をしたからだと言われています。このようにバプテスマのヨハネは権力者に対しても、臆することなく批判をした預言者です。

そしてこのバプテスマのヨハネはイエスをキリストだと早くから見抜いた人でもありました。イエスをキリスト・救い主と信じた人、一番はじめにそれを公にした人でもありました。

しかし今日の個所、彼の孤独が彼に疑いを起こしたのでしょうか。3節「あなたが待つべき方でしょうか」と尋ねるのです。なぜかわざわざ牢獄から遣いを送ってまで自分の弟子に問わせるのです。その問いには疑いがにじみ出ます。

この問いをいろいろなニュアンスで受け取ることができますが、きっと牢獄という孤独の中で自分の信じていることが揺らいできてしまったのでしょうか。もう一度確認をしたくなる衝動が抑えきれなかったのかもしれません。わざわざ弟子を遣わしてまで確認をしようとしたのです。

どんなに強い信仰を持つ人も、その信仰は揺れるものです。一人ならなおさらです。バプテスマのヨハネもそうだったでしょう。本当にあなたでいいんですよねと聞きたくなるのです。信じていても、一人でいるならそれは揺らぎます。牢にとらわれた孤独な状態の中で強い疑いがヨハネを襲い、そしてそれよりさらに強い確信が欲しいと彼は願って弟子たちを送ったのです。

これを彼の不信仰の問い、疑いの問いとは思いません。イエスがキリストであるか確認すること、問いかけること、心配になることの何が悪いのでしょうか。今怖くて信じることができない、でも今それを超えて、信じたいという願いが、この問いには含まれています。

バプテスマのヨハネの信仰は揺らぎました。しかしヨハネはこの方が希望だと信じ続けようとています。だからこそ3節「私はあなたを待っています。それでよいのですか」と尋ねたのです。

これに対してイエス様の答えはあいまいです。〇か×かで答えてはくれません。イエス様は「見よ、聞け、それを伝えよ」としか教えてくれません。もっと信じたいと熱心に思うヨハネに、ちっとも説明・説得をしてはくれないのです。

イエス様はただ「働きから証明される」とおっしゃいます。その働きの一つは癒しです。本当に目が治ったのか、足が治ったのか、信じれば病気は治るのか、あるいは熱心に祈れば死んだ人が本当に生き返るのかということ私にはわかりません。そんなことは起こらないとも言いませんし、祈れば必ず病は治りますとも言いません。

しかしここで確かにはっきりと言えるのは、イエス・キリストが目の見えない人を集め共にいたという事です。耳の聞こえない人を集め共にいた事です。死んでしまった人とも共にいたことです。そのことは確かなことです。そして一番最後に挙げられているのは、貧しい人々と共にいたことです。

イエス様は言います。「この姿を見て信じなさい」と。それは説明や言葉よりも人々と「共にいる姿」を見なさいということです。私がどうしてキリストであるか、救い主であるかということは、苦しみ、悲しみ、痛む人と共にいる姿からそれを信じなさいというのです。共に過ごす背中を見て信じろとでもいうことでしょうか。

そしてイエス様は言います、6節「幸いだ、私に躓かない人は」と。イエス様は「私に躓く人は不幸だ」とは言いません。「私を信じない人は不幸になる」「地獄に落ちる」とは決して言いません。もし「この共にいる姿を見て、信じることができれば、それはとても幸せなことだよ」と言っているのです。もしイエス・キリストの活動を見て、イエス・キリストが人々と共にいる姿を見て、そこから神様を信じることができたら、なんと幸せなことだろうかと言うのです。

私たちもそれを大事にしたいことです。信仰の説明・説得をします。説教では美しい言葉を並べます。でもそれだけではなく、私たちが共にいる姿から信じることも幸いなことです。

私たち自身が集まることに支えられているように、集まることでイエス様を伝えてゆけたらと思うのです。イエス・キリストがどれだけすごい人か、説得や説明も大切です。でも私たちが共にいる姿、共に礼拝する姿によって伝わる信仰があると思うのです。

痛みを持ったお互いと共にいる、困っている仲間と共にいる、そしてそのために共に働くということ、そのことから人々に信仰が起こされていくということです。

平塚バプテスト教会は特にこれを今まで大切にしてきたでしょう。あの教会はなんだか困っている人に対していろいろやっている教会だ、その姿からこの教会を知って下さっている人がたくさんいるのです。

もしかしたら私たち一人一人、それぞれの信仰は葦のように、風に揺られ今にも折れそうなほど弱いものかもしれません。しかしその中でも私たちは共にいるという幸いがあります。共にいることで確かな信仰とされてゆくのです。

私たちは待つ季節を頂いています。イエス・キリストを待つ季節をいただています。本当にあなたを信じて良いのかと揺れる時を頂いています。信仰が風に揺られるときがあります。そんな時、主イエスは共にいる姿によって信じなさいと言います。私たちは共に集えることを喜び、この時を待ちましょう。そこにイエス様への新しい信仰が生まれてくるのです。お祈りをいたしましょう。