【全文】「クリスマスの和解」マタイ2章1節~12節

みなさんおはようございます。今日も共に礼拝ができること感謝します。子どもたちも集ってくれています。私たちはこどもを大切にする教会です。子どもたちも共に礼拝をしましょう。子どもたちの声を聞きながら、礼拝をしましょう。

私は「佐々木和之さんを支援する会」の事務局を担当しています。現在全国でパネル展の開催を計画しておりまして、そのパネル製作を担当していますが、全国で開催する前にまず平塚教会で試し、全国に広げてゆく予定です。平日も会堂を開放して展示していますし、日曜日は食堂のスペースでパネルを掲示しています。ぜひご覧ください。

佐々木和之さんはアフリカ・ルワンダで和解と平和のために働く、バプテスト教会のメンバーです。アフリカ・ルワンダでは1995年、3カ月で80万人の死者がでる大虐殺事件が起きました。フツと言われる民族が、ツチといわれる民族の人々を襲撃したのです。それは市民が市民を襲う虐殺でした。人々に心身ともに深い傷を残しました。佐々木和之さんはそこで虐殺後の和解と平和構築のための教育をしています。

パネルでも詳しく説明していますので、ご覧ください。特に私が興味を持ったのは、サラベアナさんとタデヨさんの物語でしょう。サラベアナさんは大虐殺で自分の家族ほとんどを殺されました。そして彼女自身の顔にも大きな傷があります。大きなナタで顔を切りつけられたのです。その現場にタデヨさんもいました。直接切り付けたのではありませんが、確かに襲撃のグループの一員として現場にいたのです。

タデヨさんは裁判にかけられ、言い渡された刑を服役しました。しかしサラベアナさんに対して、ずっと直接の謝罪をせずに過ごしてきました。しかしタデヨさんは佐々木さんの活動を通じて、虐殺後15年たってようやく当時のことを直接サラベアナさんに謝罪し、償いをすることができたのです。今二人は同じ村で暮らし、助け合って、和解して生きています。時には佐々木さんの大学の講師として、和解の授業にも参加しています。ルワンダでもこのような和解はとても珍しいことです。

パネル展で紹介できなかったのはムキザちゃんという赤ちゃんの物語です。サベリアナさんとタデヨさんが和解の後、実はサベリアナさんと、タデヨさんの親せき同士が結婚するという、うれしい出来事が起きました。対立し殺し、殺されそうになった人と家族になることになったのです。とても信じられない事です。さすがにこの結婚には戸惑ったそうですが、本当に私たちは和解をしたのだからと、サベリアナさんもこの結婚を認めたのです。

最近この家に赤ちゃんが生まれました。その子の名前はムキザちゃんです。ルワンダ語で「救い主」の意味だそうです。この新しい命、赤ちゃんは二人の和解の象徴です。そして佐々木さんにとっても、これまでの和解の働きが、その希望が、命となった瞬間でした。

今ムキザちゃんの周りを、様々な人が囲んでいます。被害者と加害者、その家族、その和解に立ち会った人々が、その子どもの誕生から勇気をもらっています。世界に平和と和解を伝えようとする人々がムキザちゃんを囲んでいます。

ルワンダの佐々木和之さんの働きはこのように広がり、民族や対立を超えて、和解と平和を生み出しています。佐々木さんはこの平和構築を大学で平和学として教えています。授業では学生たちとサベリアナさんとタデヨさんを訪ねます。学生たちの中にも家族に虐殺の加害者や被害者がいます。あるいは近隣の紛争地帯から留学してきた学生もいます。

学生たちはこの二人の和解、新しい命の誕生を目のあたりにして衝撃を受けます。そして平和と和解が実現可能なのだと、その小さな命から確信を持つのです。大学卒業後、学生たちは世界に広がり、世界中で平和と和解の活動を担うようになるはずです。

これは民族や対立を超えて、小さな子どもの命を中心にする輪です。小さな子どもの命を囲んで未来の平和と和解を確信する輪です。小さな子どもの命が平和と和解の象徴となり、対立を超え、平和と和解を実現してゆくのです。

私たちの世界ではこのような殺し、殺される関係の加害者と被害者がもう一度共に生きる、家族として生きるということが起きています。私たちもこのことからたくさんのことを教えられるのです。

戦争は残酷ということ。犯した罪は刑務所に入るだけでは終わらないということ。直接その人に謝罪し、償わなければいけないということ。でもどんな状況でも和解と平和が可能であるということ。深く和解してゆくことで、平和が訪れること。新しい小さな命がそれを伝えてくれること。それを囲む人々が平和を確信すること。それはきっと私たちの人間関係にも起こること、起きてほしいことです。絶対に仲良くすることなんかできないと思う人と共に生きることができるようになる、私たちにも欲しい希望です。ルワンダからその和解と平和の希望をいただきます。

私は今日のこのクリスマス物語も同じことが起きていたのではないかと思います。博士たちの訪問は、小さな命を囲む、和解のできごとだったのではないかと思うのです。今日の個所を「クリスマスの和解」として読んでゆきたいのです。

今日の聖書の個所を一緒にお読みしましょう。占星術の学者、博士たちは東の方から来たとあります。イスラエルから見て東と言えばバビロニアの方角にあたります。イスラエルにとってバビロニアはいつも自分たちを脅かす大国、恐ろしい存在でした。イスラエルという弱小国家は常に、自分たちから大国に貢物をし、大国の王様にひれ伏さなければならなりませんでした。彼にとって東の方の人々は脅威だったのです。

そして今回、東の方から来たのは、占星術の学者でした。ユダヤの人々にとって占星術・星占い人々とは詐欺師、ペテン師、魔術師、嘘つきと同じ分類の人でした。当時の人々は東の方からきた星占いと聞いて、何ひとつよいイメージを持たなかったでしょう。二重の負のイメージ、帝国の詐欺師、帝国の魔術師がやってきたのだと受け止めたでしょう。

しかし、聖書によると、彼らがイスラエルの多くの人々より、まず先にその誕生を知り、イエス様を探していたのです。神様は帝国の詐欺師だった彼らを、大きく光る星によって導きました。神様はまったく正反対に思える人、ふさわしくないと思える人を選び、救い主の存在を告げ、旅に招いたのです。

彼らはその子どもを、小さな国の小さな家で生まれてきた、その救い主を見つけました。そして拝み、貢物を渡したのです。これでは今までの現実とはまるで話が逆です。現実ではイスラエルが大国にひれ伏し、貢物をささげ、だまされます。それがイスラエルという弱小国家の現実です。しかしここでは大国の詐欺師が貢物をもって、小さな国の赤ん坊に会うために訪れるのです。そのような訪問はあり得ない訪問でした。東の国の占星術師の平和的な訪問などありえなかったのです。

しかしこの一人のこどもをきっかけに、対立の関係が平和の関係に変わります。その子の名はイエス、彼もまた「救い」という意味の名前です。この場面では、対立するイスラエルの人々と、東の国の占星術の学者たちが、同じ一人の赤ちゃんに目を向けています。

この訪問は対立する民族の緊張のご対面ではありませんでした。博士たちは、小さな国の小さな命を心から喜んだ、喜びがあふれたのです。それは対立とは真逆の、平和と和解がありました。共に一人の赤ちゃんを囲む喜びがあふれていたのです。

博士たちはその赤ちゃんにひれ伏したとあります。彼らがひざまずくのは王様ではありませんでした。彼らがひざまずいたのは、子どもでした。王に貢物をするのではありませんでした。子どもにプレゼントをしたのです。なんと平和な事でしょうか。

そして「ひれ伏した」という言葉、これは「礼拝をした」という言葉でもあります。ともに子どもを囲み、ともに主イエスを礼拝したということです。そこに私たちと同じ礼拝が起こったということです。赤ちゃんを囲む礼拝、小さな命が大切にされる礼拝、主イエスの礼拝が起こったのです。聖書には誕生物語だけではなく、その背後に和解と平和の物語が隠されています。

12節には博士たちは来た道とは別の道を通って帰ったとあります。これまで歩んできた道、それは対立したり、殺しあったりする道でした。しかしその平和の象徴に出会った人々は、平和の礼拝をした人々は、もうその道を通ってはゆきません。別の道を選びます。暴力の道ではない、圧迫の道ではない、平和の道を歩んでゆくのです。

私たちの礼拝もそんな体験でありたいと思います。私たちの礼拝にも様々な人が集います。仲のいい人悪い人がいるかもしれません。全然知らない人もいるかもしれません。様々なルーツを持った人がいるでしょう。でも私たちもこどもを囲み、平和の礼拝をささげる者です。この子どもたち、そしてなによりも主イエス・キリストを囲んで礼拝する者となりたいのです。

それぞれの立場を超えて、集いあうのがクリスマス、教会です。私たちは子どもを大切にする教会、幼子救い主イエス・キリストを大切にする教会です。多くの人とこのイエス・キリストを中心にして、子供を中心にして、共に生きようとする群れです。

そして私たちは毎週、この礼拝から派遣される者でもあります。私たちはこの次の週を来た道とは別の道に行かされる者です。今までの1週間とは別の態度や別の姿勢、和解と平和の道に派遣される者です。その歩みのために、主イエスは私たちの下に生まれてきてくださったのです。クリスマス、私たちに、アフリカに、世界に、和解と平和が起こるように、祈りましょう。お祈りをします。