「共にオンライン」Ⅰコリント11章17節~26節

「それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。」

Ⅰコリント11章17節~26節

 

協力伝道ということを宣教のきっかけにしてゆきたいと思います。このコロナの時、それぞれの教会ではどのように主がこの礼拝・礼典を起こそうとしているのかを探し求めています。そして多くの教会が、私たちもオンライン礼拝、それぞれの場所からの礼拝が、神様の招きだと信じています。そして私たちは、神様がこのオンライン礼拝、それぞれの場所からの礼拝に多くの人を招いてくださっていることも覚えておきたいのです。

私たちは必ず再会できるでしょう。でも会堂に集まりさえすれば、共に礼拝できるのではありません。私たちはどこで礼拝するにしても、互いを意識し、祈り会うからこそ共に礼拝をしていることになるのです。特に今、顔は見えなくとも、共に礼拝している仲間を感じて、この礼拝を頂きたいのです。

今日私たちに示されいる聖書個所20節には「それでは一緒に集まっても、主の晩餐をしたことにならない」とあります。私たちは一緒に集まりさえすれば、豊かな礼拝や礼典ができると本当に思っています。しかし一緒に集まっていても、お互いに無関心に集うなら、それは「共に」ではないのです。

こんなに集まりたい私たちは今、聖書から集まる意味を問われます。もし教会で仲間争いし、無関心であるならば、たとえ会堂に集まってみんなそれにあずかったとしても、真に共に礼拝をしたことにはならないのです。真の意味で共に礼典・礼拝をするということは、互いにいたわり、励ましあう仲間として互いの存在を感じながら礼拝するということです。これは集う礼拝でもオンラインの礼拝でも同じです。それぞれの場所では互いの存在はより感じづらいものです。でも私たちは共に礼拝をしているということ、このことを覚えながら礼拝してゆきたいのです。

今日、この礼拝に神様が私たちみんなを招いてくださり、共に礼拝ができたことに感謝しましょう。神様は私たちとこんな風につながって下さるお方です。そして今多くの人が、画面の前に座り、一緒に礼拝をしています。私たちは離れていても一つです。互いに祈り会い、励ましあう仲間です。

そしてただ単に会堂に集うことが私たちの希望ではありません。次に会堂で集う時、次に会堂で主の晩餐を持つとき、私たちはより深く主イエスを覚え、互いを覚えることができるでしょう。神様は私たちとのようにしてつながっていてくださいます。私たちを礼拝によって互いにつなげて下さいます。私たちは主なる神を覚え礼拝しましょう。そして主にある仲間を覚えこの礼拝をささげましょう。主にあるそれぞれの教会も覚えこの礼拝をささげましょう。お祈りをいたします。