みなさん、おはようございます。今日もそれぞれの場所から共に礼拝をできること、感謝です。日に日にコロナの情報が入ってきて心が休まりませんけれども、今日この短い時間ですが、共に集い、主に心を向けてゆきましょう。今日は子どもたちも集ってくれているでしょうか。私たちは子どもたちを大切にする教会です。今日は声を聞くことができませんが、共に礼拝をしましょう。
今月私たちは協力伝道という事をきっかけに福音を考えています。1回目は国外伝道について佐々木和之さんを挙げて、聖書を読みました。「和解の協力伝道」です。先週はコロナ禍の中でのオンライン礼拝や主の晩餐について各教会の取り組みから考えました。今日は協力伝道の中の「牧師養成(神学教育)」について考えてゆきたいと思います。
一人の牧師を育てることは、一つの教会では難しいことだと思います。いろいろな分野の専門知識や能力を一か所の学校に集め、教えてゆくことが必要だからです。聖書の専門家のみならず、バプテストの専門家、教会の現場の専門家、あるいはカウンセリングの専門家、パワハラ・セクハラの研修など、それぞれ専門とする教師から学ぶ必要があり、一つの教会でそれをカバーするのは不可能です。そういった意味で、神学教育・牧師養成には各個教会の協力が必要です。私たちはそれを神学校献金という形で支えています。
もちろん学びは神学校で終わるわけではありません。牧師になってからこそ、いろいろな失敗や学びがあるのです。私たちの教会が未経験で未熟な牧師を招聘するということも、真の牧師養成に参加しているといえるのではないでしょうか。私の平塚教会での経験は次の教会に活かされるでしょうし、いままでの牧師先生方もこれまでの教会の経験を豊かに活かしてきたでしょう。それが協力伝道です。
今日は私自身が神学校に入学する時のことをお話します。私は6年前に大井バプテスト教会から西南学院大学の神学部に入学をしました。私はまったく覚えていないのですが、大井教会を出発するとき、私が加藤誠先生に何と言ったか「必ずビックになって帰ってきます」と言って、教会を出たらしいのです。何年か経ってから教えてもらいました。
今思うととても恥ずかしいのですが、それは神学校入学前の私らしい言葉かもしれないと思います。私はずっとベンチャー企業に勤めていたので、日夜、成長すること、大きくなることを目指していました。もっと大きく、強くなろう、そんな思いが入学前にはあったのだと思います。実際、私の入学の時の志望動機を見直してみたのですが「キリスト教はもっと人々を導く力があって、社会でもっと評価されるべきだ。本当の価値を伝えたい」と書いてありました。ビックになろうとしていたのでしょう。
しかし神学校で教えられ、学び、気づいたのは真逆の事でした。神学校に通う間、小さいということの大切さを教わったように思います。学べば学ぶほど、知れば知るほど、小ささの中に神様の力が働くことを知りました。学べば学ぶほど、小さい命に目を向ける神様の働き、社会で小さくされている人とこそ神様が共にいることを知るようになりました。
大きくなることよりも、ビックなることよりも、小さいことを大切にしたいと思うようになりました。神様の働きはそこにあるのだと知るようになりました。大きな声を聞くよりも、小さな声を聞くこと。強さよりも弱さを大切にすることを知りました。その意味では、自分がひっくり返されるような4年間だったように思います。
きっとあのまま一つの教会にいてはできない学びをさせてもらいました。そして何より多くの体験によって福音を様々な面から見ることができました。ビックになるという目標は、小さくあり続けようという目標に変えられました。そして小さき者として、小さいことに目を向け、小さい者同士として共に歩むという目標に変えられました。それは今でも続けたい目標です。
今、コロナの時を過ごしているわけですが、その時も小さいことに目を向けたいのです。この時自分の小ささを受け止めたいのです。自分がいかに関わりに支えられていたのかを知りたいのです。また、このコロナに翻弄されて、小さくされている人々を覚えて祈りたいと思うのです。
神学校教育の大切さを私は痛感しています。そしてこれからも神学教育を支えることの大事さを感じます。そして今、これから神学校に通う献身者にもぜひ様々な学びを通じて、小さいものをたくさん見つけて欲しい、そのように願っています。
今日の聖書個所を読んでゆきたいと思いますが、今日の聖書からも、神様は小ささを大事にするお方だということを私は知ります。イエス様は大きさよりも、小ささを選んだお方でした。強さよりも、弱さを選んだお方でした。そこに共にいるお方だった。そのことを見てゆきたいのです。
今日の聖書個所を見てゆきましょう。イエス様はバプテスマのヨハネに洗礼を受けたとあります。少し前の5節には、様々な地域から多くの人がバプテスマのヨハネの「悔い改めよ」という呼びかけに応え、洗礼を受けていました。おそらく多くの人々が集い、列になっていたでしょう。そのようにヨハネからバプテスマを受けました。
イエス様もきっとその列に並んでいたのです。他の人と同じように、悔い改める人々の列に並びました。イエス様は大きさや、強さ、威厳を持たないお方のように見えます。ヨハネの洗礼の活動を見て、悔い改める一人として洗礼を受けたように見えるのです。
イエス・キリストは神の子であるにも関わらず、悔い改めの列に並んでいるのです。私はそこに、へりくだる神の姿があると感じます。これは神がどこにいるのかをよく指し示している物語です。神は大きく、強く、勢力を拡大する場所に共にいてくださるのではありません。
神様は小さな人間たちが、悔い改めて列に並ぶその場所にいたのです。神様は私たちの悔い改めの列に一緒に並んでくださっていたのです。その長い列は大きく強くなるための列ではありませんでした。自分の小ささを知り、それを告白する人々の列でした。小さくされた人を大事にしようとする列でした。そしてそのような小さい者に、神の愛が注がれているということ信じる者の列でした。神様はそれを見逃さず、その列に共に並んでくださったのです。そこに共にいて下さる神がいます。マタイ福音書が繰り返し言う、インマヌエルの神様、我々と共にいる神がそこにおられるのです。
14節ヨハネはイエス様の申し出を何度も断っています。「私にそんな資格はありません」「私の方こそあなたからバプテスマを受けるべき者です」そう断ったのです。しかしイエス様は今、自分がバプテスマを受けるのは「正しい」といってそのバプテスマを受けたのです。
神の子であるイエス様は、自分より劣っているはずの人間からバプテスマを受けたのです。それが神の子という存在です。イエス様は自分を大きくすることよりも、小さな人々と共にいることを選んだお方だということです。
イエス様にとって「正しいこと」とは何だったのでしょうか。それは自分が力をもち、大きくなること、自分の偉大さを証明することではありませんでした。それよりも大事にしたこと、「正しい」としたこと、それは今悔い改めている小さな人々と共に、バプテスマを受けるということでした。それがイエス様にとって「正しいこと」だったのです。
イエス様のバプテスマは小さな人々と共に生きるという、たくさん方法の一つでした。15節「正しいこと」とは、小ささと共にいるということです。その一つが、このバプテスマです。力ある方、大いなる方、神様が、へりくだり、小さきものと連帯し、私たちと共に歩むという象徴がこのバプテスマです。イエス様のへりくだりと連帯がここにあります。小さき者と共にいる神、小ささを大切にする神が、ここに描かれているのです。
そして17節、神の霊もそのように歩むイエス様を「わたしの心に適う者」と言っています。
この後イエス様は宣教の旅を開始しました。しかしイエス様は大都市からその宣教を始めないのです。非効率な地方、ガリラヤから宣教を始めます。大都市にいけばすぐに信者がたくさん集まるのにと思います。神奈川県だったらまず横浜で宣伝するのが効率がよいでしょう。ビックになる近道です。でもイエス様は大都市に行くのではありません。ガリラヤという田舎町から宣教を始め、偶然出会った無学な漁師を最初の弟子にしたのです。そこにも神様の在り方が示されているでしょう。小ささと共にいるということです。
今日のイエス様がバプテスマを受けたという物語、実は後代の人々はこの個所の解釈に相当悩んでいました。なぜ力強き神の子が、それに劣る者から洗礼を受けたのか。偉大なる神にとって都合が悪いと思ったのです。でもだからこそここは大事なことが語られています。この個所はこのように、キリストがへりくだり、悔い改める小さなものと共にいたお方だということが示されているからです。
今日の物語で私たちは自分をバプテスマの列に並ぶ人々にかさねます。イエス様はその私たちの悔い改めの列に共に並んでくださるお方です。小さい者と共にいて下さるお方です。ご自分の大きさよりも、小ささを大事にするお方です。「正しいこと」それは、自分を大きな者とせず、へりくだり、小さい者、弱い者として人々と共に歩んでゆくことです。それが神様にとっての正しさなのではないでしょうか。
今この時、私たちは小さくいたいのです。コロナに振り回される弱い私、神の助けが必要な私を見つけたいのです。ピンチをチャンスに変えるのではなく、ピンチに共にいて下さる神様を見つけたいのです。
そして私たちは小さくされている人々にも目を向けたいのです。コロナに振り回される人々を祈りたいのです。
私は協力伝道の中で、神学教育の中でそれを教えられ、知りました。これからもこの協力伝道が続くことを願っています。小さき者が小さき者と共に生きる歩みが、多くの人々に起こされていくことを願っています。お祈りましょう。