【全文】「性を分け隔てない神」マタイによる福音書27章55節~56節

みなさん、おはようございます。今日もそれぞれの場所からですが、共に礼拝をおささげしましょう。私たちはこどもを大切にする教会です。子どもたちも見てくれているでしょうか。

私たちは今月、4回の宣教の中で、ジェンダーとセクシャルマイノリティーについて考えながら、聖書に聞いてゆこうと思います。といっても横文字は難しいですね。考えたいのは男女差別や偏見をなくし平等になってゆこうということです。神様は性を分け隔てない方だと言うことです。そしてもうひとつは性的少数者いわゆるLGBTQと聖書・教会のことを考えようというです。1カ月かけて取り組みたいと思います。前半2回は男女平等について、後半の2回は性の多様さを知るということに重点を置いてゆきたいと思います。

1回目の今日は、神様は男女の役割を分ける方ではなく、すべての性の人々を招き、主とお互いに、尊重し合い歩むように促しているということを見てゆきたいと思っています。私たち平塚バプテスト教会では昨年の4月から週報の男女別の礼拝参加人数の表記を止めました。男性〇人、女性〇人という集計をやめました。そして週報に名前を書くのに最後に兄・姉をつける表記も止めました。男女にかかわる表記をしないこととなりました。

教会はいままでお互いを兄弟姉妹と呼び合い、お互いの特別な心のきずなを大事にしてきました。私たちはキリストにあって家族なんだ、そう親しみを込めて互いに兄弟姉妹と呼びかけあっていました。それは素晴らしいことです。

一方で家族として呼びかけるだけではなく、男女を呼び分けていました。このように教会は知らず知らずのうちに男女を分けて呼んだり、男女の役割分担を当たり前のこととして受け止めるようになりました。

男は男らしさ、女は女らしさが大事だということは教会でも言われてきました。男なら泣くな、女ならおしとやかにしなさいと教会も教えてきたのです。でもそれをこれからも私たちが続けていくかどうかは立ち止まって考えてゆきたい事です。

私たちは本当は、男らしさ、女らしさよりも、その人らしさを大切にした方がいいということに気づき始めました。男だからこう、女だからこうというのではなく、いままでからするとその中間にいる人や、反対にいる人がいてもいいのではないかと気づくようになりました。それがその人らしさなのではないかと思うようになったのです。むしろ、今までのように男は男らしく、女は女らしくを続けてゆくことは、女性や少数者、あるいは男性さえも、そこに抑えつけ、縛り付ける力になってきたのです。

ジェンダーギャップ指数という国際的な指標があります。国別に男女平等がどれだけ進んでいるかを示すランキングです。日本は2006年は80位でした、しかし2020年日本は121位でした。日本の男女平等は先進国の中、東アジアの中で最低です。特に評価が低いのは政治、経済、教育の分野です。政治ではたとえば日本の内閣の中に女性が2名しかいない事が減点の理由です。ランキングの高い国では半数近くが女性だったり、リーダー・大統領自体が女性であることも珍しくありません。

経済で減点となっているのも女性がリーダーに抜擢されることが少ないのが原因です。日本の企業で女性管理職は14%、世界の平均の半分以下です。教育でも女性と男性の大学進学率に大きな違いがあります。

教会も男女平等が進んでいるとはいいがたいでしょう。平塚教会に関わらず、昔の教会の姿を聞くと、女性は執事になれない教会、女性は講壇の上に上ってはいけない教会など役割が分かれていた教会は多くあります。私たちの教会はそのような性別で役割を分けることから少しずつ解放されてきました。今日の司会者も女性です。でも教会の中にもきっとまだまだ私たちの気づいていない男女の格差。差別は残っているでしょう。教会を指数当てはめてみるとどうでしょうか。執事は女性多数でプラスの得点です。しかし過去に女性の牧師を招聘したことのないところは減点でしょうか。

神様は性を分け隔てせずに、招いておられるお方です。性別による役割分担を取り除いていきたいのです。それはきっともう私たちの無意識になってしまっています。その無意識をもう一度問い直し、男らしく、女らしくということを超えてゆきたいのです。

神様は性別で役割を決めるお方ではありません。神様は女性も男性も、あらゆる性の人を招いておられます。神様はすべての人が従い、互いに仕えあうことを求めています。今日そのことを聖書からいただきたいのです。

 

今日読んだ聖書も実は無意識に男女差別が含まれている箇所といえるでしょう。今日の個所では55節「イエスに従って来て世話をしていた」女性たちが記録されています。

女性はやはりいわゆる女らしくイエス様の身の回りのお世話をしながら、ついてきたのでしょうか。女性はリーダーではなく、男性を補助する者として後ろからついて回ったのでしょうか。男性に活動の中心をまかせ、女性たちは雑用係だったのでしょうか。もちろんそうではありませんでした。

この個所にある「世話をする」という言葉に注目をします。この言葉は聖書の言葉ではディアコネオーという言葉です。この言葉には食事の世話をするという意味があります。食事している人の周りで食事を出したり、水を出したりするのです。レストランのスタッフのイメージでしょうか。それが世話をするという意味です。

しかし、聖書ではこの言葉は食事の世話だけではなく、信仰的な言葉として重要な言葉です。世話をするとはすなわち、イエス様に「仕える」、そして他者に「仕える」尊重してゆくという意味を持ちます。それはただ単にイエス様に食事を出すということではなく、神の業、イエス様の福音宣教に仕えるという大切な意味です。もっと踏み込んで言うならば、イエス様に仕える指導者・リーダーとして活動に加わってゆくということを表す言葉です。信仰者としてイエス様に仕えるという意味です。

しかしこの「仕える」「奉仕する」(ディアコネオー)という言葉、なぜか日本語に翻訳されるとき、女性が主語になる個所で「世話をする」とか「もてなす」という言葉として訳されてしまいました。本来「仕える」と訳されるべきところが、女性にこの言葉が付くと「もてなす」と訳される、これは問題ではないでしょうか。聖書のもともと同じ「仕える」という言葉なのに女性なら食事当番、男性ならイエスに仕えると訳し分けてしまっているのです。

ここにはおそらく翻訳した人や社会の全体の無意識な感覚が入り込んでしまったのでしょう。神様は性によって分け隔てをされないお方です。でもこの個所は女性だからつまり食事や洗濯の世話をしたということでしょうという感覚です。そんな無意識な男女差別、男女の役割分担、ジェンダー差別がこの翻訳には表れてしまったのです。

おそらく背景には翻訳委員会の男女構成比が影響しているでしょう。いま私たちが使っている新共同訳は翻訳の検討委員会に女性は3%しかいなかったそうです。

数年前に新しい協会共同訳が出版されています。新しい翻訳をみますとこの個所は「仕えてガリラヤから従って来た」と修正されました。女性たちは世話をしていたのではない、イエスに仕えていたのだと改められています。

女性がイエスを「もてなした」と翻訳されている箇所もありましたが、これもイエスに「仕えた」に変更されました。男性の場合も、女性の場合も「仕えた」という言葉に基本的には統一されました。聞くところによれば、新しい翻訳の委員会の女性の比率は23%まで増えているそうです。私たちの聖書の中にすら、無意識に男ならこう、女ならこう、こうしてあたりまえという感覚が入り込んできてしまうのです。最近ようやくそれが変えられたのです。

この個所は教会に男女の役割分担を改めて考えさせる個所です。決して女性はお世話係ではなかったということです。教会にはたくさんの女性奉仕者、たくさんの女性指導者がいたということです。

この3人を見てゆきましょう。3人はイエス様にガリラヤからずっと従って来た初期からのメンバーでした。その3人はイエス様の最期の十字架を真正面から目撃をした3人でした。初めから終わりまで従った弟子でした。一緒に従ってきた他のペテロなどの男性の弟子たちは、その時みな逃げて、そこにはいませんでした。

十字架に真に向き合ったのはこの3人の女性でした。これ以外にも初期の教会にはたくさんの女性のリーダーがいたでしょう。多くの女性がこの十字架の出来事を目撃し、逃げて行った男たちに伝えたのです。

この女性たちは、イエス様に最後まで仕えたはずだったのに、後の時代、お世話をしてついて回った、雑用係ということにされてしまいました。しかし彼女たちは確かに一人の人間として、その十字架に確かに向き合ったのです。

さて、私たちは今日、神様はどんな人かを知るために集まっています。神様は性の分け隔てなく私たちを招かれるお方です。性別によって役割を分けるのではなく、男女やあらゆる性に向けて、分け隔てなく招きを下さっている方です。

神様は男性はこのように従いなさい、女性はこのように従いなさいと招くのではありません。すべての人に従いなさい。すべての人に仕えなさいとおっしゃっているお方です。

でも時に私たちの受け止め方は男女に分けてしまいがちです。しかし、神様は性の分け隔てせず、私たちを招き、私たちに仕えるようにと促しておられます。私たちの教会や社会や生活にもそのような出来事が多く残っているでしょう。社会に性別による格差がなくなるように願います。そして教会とそれぞれの生活の中にもその格差が無くなるように願います。

神様の福音はすべての性の人に与えられ、すべての人が仕えることに招かれています。その主に共に仕えてゆきましょう。

このあと私たちはオンラインで、主の晩餐の時を持ちます。今日はすべての人がこの主の晩餐に招かれています。共にいただきましょう。そして主イエスが私たちパンを配って、仕えて下さったように、私たちも互いに仕えましょう。お祈りをいたします。