「平和の門をたたきなさい」マタイによる福音書7章6節~15節

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。      マタイ7章7節

 

私たちは平和というテーマで宣教をしています。戦争に対し宗教がどのような態度をとるかは大きな影響力があります。宗教が戦争を支持する時、その戦争は宗教的お墨付きを与えられ、正当化され、聖戦となります。第二次世界大戦中、キリスト教は戦争に対し賛成し、積極的にこの戦争に協力をしました。

たとえば大東亜共栄圏という植民地支配はアジアの人々を深く傷つけました。しかしこの時、キリスト教は東アジアの植民地化を「東アジアに神の国を出現させる働き」だと語りました。さらに日本の教会では戦時中、献金が募られました。全国の教会から多くの献金が集まり、戦闘機には「日本基督教団号」と書かれていました。

今私たちは、平和を訴えます。でもまず私たちは自分たちの過ちを真摯に反省することから始めます。その過去を知らなければ、未来の平和を訴えてゆくことはできないのです。平和を訴えるだけではなく、自らの過ちに目を向け、そこから平和を訴えてゆきたいのです。そのことが一番私たちに平和の大切さと、難しさを教えてくれるのではないでしょうか。

今日の聖書箇所を読みましょう。聖書はこれを読む人自身の目に、丸太が刺さっているのだということを伝えようとしています。目に丸太の刺さった人とはキリスト教のことともいえるでしょう。つまりそれは私たちがどのように戦争に協力してきたか、それをまず知らなければ、その丸太を取らなければ、平和を訴えてゆくことができないということです。

私たちは過去を変えることができません。過去をなかったことにもできません。私たちはすべての過去を引き受けて、向き合わなければいけません。過去に目を閉ざすものに、未来を語る資格はありません。それこそが自分の丸太に気づかない者に、おがくずは取れないということです。

平和の文脈で読む時、7節以降はこうです。平和を求めなさい。そうすれば平和は与えられます。平和を探しなさい、そうすれば平和が見つかります。平和の門をたたきなさい、そうすれば開かれます。誰でも平和を求める者は受け、探すものは見つけ、平和の門をたたく者には平和は開かれるのです。誰が平和を欲しがるこどもに戦争を与えるでしょうか。平和を求めるのに、戦争を与えるでしょうか。私たちは戦争を起こしてしまう罪あるものですが、神は私たちに平和を与えるお方です。天の父は平和を求める者に、きっと平和をくださるに違いありません。私たちは平和の門をたたきましょう。

このあと私たちは主の晩餐を持ちます。イエス様との食事、それはそれぞれが自分の目の丸太に気づく食事でした。そしてそれは平和を生み出す食事となったのです。この後、私たちもこの食事を記念して主の晩餐にあずかりましょう。