【全文】「変わり続ける礼拝」イザヤ1章11節~20節

 みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も共に、お互いを感じながら礼拝をささげましょう。

だいたいひと月ごとにテーマを決めて宣教を続けています。テーマはおおむね教会の内側と外側の事が交互なるようになっています。5月は地域活動、6月は教会、7月は平和、8月は礼拝といった順番です。このような宣教のテーマの持ち方をどのように感じているでしょうか。

テーマがあった方がわかりやすい、深く考えることができる。忘れずに覚えることができる。あるいは聖書が恣意的に解釈されていないか、聖書よりテーマが重要視されていいないかそんな感想もあるかもしれません。そこは問い続けながら聖書を読んでゆきましょう。今日から3回、礼拝ということをテーマに宣教をしたいと思います。

どのように礼拝をするかということについて、平塚教会は常に変化し続けています。最近ですとこどもプロジェクトが始まり、こどもメッセージが始まりました。こどもが増えて成長してゆくのに合わせて、こどもスペースを広げました。このように教会の礼拝は変わり続けてきました。でもこれで完成というわけではありません。

もっと子供を大切にするにはどうすればよいでしょうか。いろいろな方法があると思います。バプテストの相模中央教会では礼拝の最後にこども達が前に出てきて、牧師が手を置くという礼拝がされています。それもこどもを大切にするという礼拝だと思います。私たちの教会はこれからもこどもの成長や人数によって、礼拝を変え続けてゆくでしょう。

礼拝はコロナ・ウイルスによっても変化してきました。残念ですが平和のあいさつの中の握手を中止しています。全体の時間を短くしたり、オンラインでも参加できるようにしたり、主の晩餐が言葉だけやカップになったりと変化をしてきました。高齢の先輩方はこの教会の礼拝がこれまでどのように変わってきたか、また変わらずに来たかをよくご存じではないでしょうか。

私たちが礼拝で何を大事にするかは、その時の信仰によって変わるでしょう。何を神様に表したいかが変わってくるのでしょう。そして社会の状況によっても礼拝は変わるのでしょう。礼拝はこれまでも様々に変化をし続け、これからも変わり続けてゆくでしょう。私たちの信仰理解と、社会の状況は変わり続けます。だからこの礼拝も変わり続けてゆくのです。

礼拝は神様が主催者です。礼拝は神様が起こされるものです。しかし同時に、どのように礼拝をしてゆくかは私たち人間が、信仰によって決めることです。それを真剣に考えて決めなくてはいけません。

一番怖いのは「これでよい」と決めつけてしまうことです。ずっとこれでやって来たのだから、昔からこうだから、このままでよい、変えてはいけないということが、一番怖いことです。神様に献げる礼拝は常に、これでよいのだろうかと問い続ける姿勢が大切です。これでよいと決めつけず、真剣に考え続けてゆくのが私たちの信仰です。

これでよいと決めつけてしまった瞬間から、礼拝の主催者が人間になってしまいます。形だけが残り、形骸化が進みます。中身が失われ、変化する社会と乖離してゆきます。

みんなでどうやったらもっと神様を礼拝できるか、今の私たちが大切にしているものを表すことができるのか、今の世界の中でどのように礼拝をするのかを考えたいのです。どのように変わってゆくべきかを考えたいのです。

そしてこの礼拝を私たちが生きる残りの6日間としっかりと結び付いているものにしたいのです。「神がすべての人を愛している、さあ残りの6日間、私も人を愛そう」そう思える礼拝にしてゆきたいのです。

どのように礼拝するのかということ、しばらく一緒に考えてゆきましょう。

 

 

今日の聖書の箇所を読みましょう。預言者イザヤの厳しい言葉が並んでいます。信仰者にとってはあまり聞いていて気持ちのよいもの、元気がでる箇所ではありません。

当時の人々もきっと一生懸命に礼拝し、献げ物をしていたのだと思います。特に神殿の献げ物は何よりも重要とされていました。人々は一生懸命に持っているものを献げ、その献げ物は神殿に山のようになりました。そして人々は12節にあるとおり、新月祭、安息日、祝祭を大切に守ってきました。神様の出来事を覚えてそれを祝っていたのです。

しかし今日の箇所、神様はその一生懸命な献げ物を喜んでいないようです。神様はそれを見て途方に暮れていました。11節には「もうそれに飽きた」「喜ばない」、13節には「もう耐えられない」、14節には「憎んでいる」「重荷だ」「疲れ果てている」、15節には「目を覆いたい」「もう決して聞かない」とあります。

人間が一生懸命に献げて、礼拝しているのに、神様はそんな風に感じて、受け取っていると聞くとショックですし、残念に思います。私たちのこの教会の礼拝を、神様どう感じているのか心配になります。

15節にはその手が血だらけだとありますが、どういうことでしょうか。手が血だらけであること、それは誰かを傷つけているという証拠です。手が血だらけとは、一生懸命礼拝し、一生懸命献げ物をしているが、残りの6日間は誰かを傷つけて、手が血にまみれになっているということです。

神様は礼拝も献げ物も大事だけど、まずその誰かを傷つけるのをやめなさい、傷ついている人をしっかりと見なさいということです。貧しい人から絞りとるのをやめさせ、こどもの権利をまもり、やもめの訴えを聞く、そのことをしっかりとしなさいと語っています。

つまり神様が問いかけているのは、礼拝や献げ物には一生懸命だけど、残りの6日間で目の前の困っている人、小さくされている人をまったく忘れていないか?そう問いかけているのです。神様は世界の事柄を無視して礼拝していませんか?社会に、世界に目を向けて礼拝していますか?あなた個人の礼拝になっていませんか?と問いかけているのです。

神様はイスラエルの人々に、このままこの世界の問題を見逃し続けて礼拝するなら、必ず平和は崩れると語っています。神様に感謝して献げるのに、世界に目をむけない、日々の生活が変わらないということ、神様はそれに戸惑っているのです。

一方、神様は礼拝なんかしなくていい、献げ物なんてしなくていい、幸せならそれでいいと言っているのではありません。神様は礼拝しなさい、ただし社会、世界で起きている問題を無視して行われる礼拝はもう飽きたと言っているのです。現実を忘れた礼拝、現実を忘れるための礼拝はもういらないのです。日々の生活を忘れた礼拝はもういらないというのです。

ここでは二つの方向が示されているでしょう。ひとつは本当に礼拝しているのだったら、それぞれの生き方、生活が変わるはずだという方向です。礼拝から力をいただいて、私たちの世界や、生活の中で助けと励ましを必要としている人と関わってゆくようになるということです。その原因にしっかりと向き合ってゆくこと、礼拝からその力をいただいて、それぞれの生活の中で具体的に愛を示すように求められています。礼拝から生活が変わるという方向です。

 

私たちの教会にたとえるなら、礼拝でこどもを大切にすることから、私たちの日々の生活の中でもこどもを大切にするという姿勢が生まれてくるということです。礼拝でこどもを大切にしている人々の生活で、こどもを大切にしないことは起こらないはずです。

礼拝は必ず生き方を変えます。生き方を変えずに礼拝を続けることはできません。生き方を変えずに礼拝をすることは、血だらけで礼拝することです。

そしてもうひとつの方向もあるでしょう。それは生き方が変わる時、礼拝が変わるはずだという方向です。生き方の変化を願う時、礼拝に変化が起こるのではないでしょうか。生き方の変化が、礼拝の変化を起こすのではないでしょうか。

たとえば平塚教会では現代のこどもがおかれた難しさを知る時に、この礼拝でこそ、こどもを大切にしようと礼拝が変わるのではないでしょうか。たとえばコロナに向き合うとき、礼拝を変えなくてはなりませんでした。私たちは礼拝はこれでいい、ということはいつまでも起こらないのです。

このように礼拝から世界が変わり、世界から礼拝が変わるのです。生き方の変化が礼拝を変え、礼拝の変化が生き方を変えるのです。私たちの生きる場所、生活の場所が変化するように、教会の礼拝も変化してゆく、礼拝の献げ方も変わってくるのです。そして礼拝から私たちの生活・世界が変わるのです。

私たちにはこのような礼拝が必要です。私たちにとってそれぞれの場所で愛をもって歩むために礼拝が必要です。そしてただ礼拝を繰り返すだけではありません。生き方が変わるように、礼拝の形も変わり続けるのです。世界が変わるだけではなく、私たちも変わるのです。

私たちは1週間が始まりました。どんな1週間をおくるでしょうか。この今持っている礼拝と同じように、神様に祈り、聞いてゆくこと、こどもを大事にしてゆくこと、そのような1週間を歩んでゆきましょう。

そしてまた来週集う時、それぞれに起きた出来事を持ち寄って集いましょう。苦しみや願い、聞いたことを持ち寄って礼拝してゆきましょう。そしてどうやって礼拝をすべきかをともに考えてゆきましょう。

このあと私たちは主の晩餐を持ちます。もちろんこれも今の形が完成形ではありません。問い続けるべきことがあるでしょう。なぜするのか、何のためにするのか、誰とするのか、問い続ける中で、今日もこれにあずかってゆきましょう。お祈りをします。