義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
マタイによる福音書5章6節
聖書の平和「シャローム」とは戦争がない状態を指すだけではありません。何も起きない状態ではなく、平等に向けての激しい動きのある状態を示します。格差や不公平、差別が正され、平等にへの動きが活発にある状態です。
シャロームとは例えるなら丸です。でもこの丸は歪んでいます。抑え込まれている分、飛び出ている分があります。シャロームは全員が満たされ、抑えつけられる人いないこと、それが回復されてゆくことです。そして人を見下す人は、低い目線に立たされていくこと、それがシャロームです。日本は平和かもしれません。でも聖書に立ってシャロームかを見るならば、格差、偏見、暴力、ハラスメント、無責任があふれています。
大切にしたいことは、私たちがこの丸のゆがみを見る時、最も低い場所に起きた出来事、十字架のある場所から見るということです。弱くされ、小さくされている人々のいる場所から世界を見るのです。イエス様はこのシャロームを繰り返し語ったお方です。今日の箇所からイエス様の語るシャロームを見てゆきましょう。
1節にある「群衆」とは貧しい人々、差別に苦しんだ人々、いわば谷の底にいた人々だったと言われます。3節からのイエス様の視点は、底からの視点です。心の貧しい人は幸いだとあります。心が貧しいとは、今まさにへこまされている心のことです。貧しさや困難で、心が疲れ切った人のことです。イエス様はその疲れた人々に、幸いだと語り掛けています。その谷は必ず満たされ、回復するからです。そこにこそ神様の力が働くから、シャロームの力が働くから、幸いだと言うのです。
6節には「義に飢え渇く者」とあります。それは不公平、不平等、差別にあえぐ人たちのことです。正義が欲しい、平等と公平が欲しいと、水を求める人のように、願う人です。イエス様はそのような人に、必ずあなたにシャロームが起こる、その渇きは満たされる、丸くなると言うのです。
私たちはシャロームを約束され、そのために力をいただいている者です。私たちは、イエス様からシャロームの希望をいただきましょう。戦争しないだけではない、私たちの社会の中で苦しむ人が回復されていく希望、そのための力です。私の苦しみの底に共におられ、回復の力を与えて下さるという希望です。その力、シャロームを神様は約束をしてくださっています。
私たちは神様からシャロームのための力をいただきましょう。そしてそのために繰り返し、イエス様の十字架と復活に目を向けたいのです。シャロームの物語を聞いてゆきたいのです。シャロームである方を覚えましょう、そしてそのシャロームを今日も祈り、礼拝をしましょう。お祈りします。