【全文】「最後じゃない晩餐」ルカによる福音書24章28節~36節

 

一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。             ルカによる福音書24章30~31節

 

みなさん、おはようございます。今日も離れた場所からですが、共に礼拝をいたしましょう。私たちはこどもを大切にする教会です。礼拝にすべての人が集えること、こどもたちの声が戻ってくることを願いながら、今日もそれぞれの場所から一緒に礼拝をしましょう。

私たちは9月、主の晩餐式をテーマとして、一緒に考えています。1回目は主の晩餐とは十字架にかかられたイエス様を覚えて、その体と血を忘れないためにするのだということを考えました。そしてそれは本当にふさわしくない弟子が受けたものだったということも見ました。前回は主の晩餐とは自己吟味を超えて、今日誰がいないか、私たちは誰かを置き去りにしていなかを吟味するものだということを考えました。今日は3回目です。

今日の聖書箇所はイエス様が復活の後に現れ、共に食事をした場面です。イエス様と弟子たちがした食事は、最後の晩餐だけではないということを見たいと思います。聖書はイエス様が本当にいろいろな場面で食事をされたと伝えています。復活後でも人々と食事をしているのです。

マタイやマルコには復活の後に食事をしたことは書かれないのですが、ルカとヨハネはその食事を記録しています。イエス様が復活した後の記事は多くないのですが、その中で食事を共にしたことが記されているのは、やはりイエス様が一緒に食事をすることを大事にしたからでしょう。今日はその復活後の主の晩餐を見てゆきましょう。

ところで最後の晩餐という言葉があります。私は今回また気づいてしまったのです。前回私は主の晩餐を昼にやっているのに「晩餐」と呼んでいるということに気づいてしまったのですが、今回は最後のという言葉に引っ掛かりました。

あの最後の晩餐は、今日の箇所によれば実は最後ではないのです。そもそも聖書には最後の晩餐という言葉はありません。私たちが過越の食事の場面を「最後の晩餐」と呼んでいるだけです。イエス様は1回もこれが最後だなんて言っていないのです。それはあくまで十字架の前の最後という意味で、私たちが呼んでいるだけです。

今日の場面のように、復活後も主の晩餐は繰り返し続くのです。最後の晩餐は最後ではなかった。それは復活後も続き、そして今なお私たちに繰り返されています。最後の晩餐が最後ではなかったという光景が今日の聖書には書かれています。その箇所を一緒に読んでゆきましょう。

 

 

今日の場面はエマオの途上という物語の後半部分です。二人はエマオからイエス様に会いに出かけてゆきました。ちなみにこの二人の性別や年齢はわかりません。私がなぜか成人男性二人を想像してしまうのは、思い込みです。男女だったかもしれません。夫婦だったかもしれません。親子だったかもしれません。

この二人は結局イエス様に会うことはできなかったのでしょう。代わりに二人が聞いたのは不思議な話でした。イエスが十字架で殺され、その死体が墓から無くなった、どうも生き返ったらしいという話です。二人は会うことのできなかった失意のうちに、そして不思議な出来事への疑問と混乱のうちに家へと向かっていました。

そしてそこには、一人寄り添って歩く人が与えられました。その人は二人に忍耐強く寄り添い、聖書の話をしました。そして二人は旅の途中、宿をとることになった時、そこに一緒に泊まるように願いました。二人は共に旅をするこの人が誰かを知らないまま、無理に引き留め、一緒に泊まらせます。そしてそこで、この人との食事が始まったというのが今日の場面です。

30節には「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」とあります。これはイエス様の過越の食事、いわゆる最後の晩餐の際とまったく同じ言い回しです。この言い回しはイエス様の食事に繰り返し出てきます。この言い回しが出てきたら、これは主の晩餐だったと想像したいのです。

明らかにこの食事では主の晩餐が行われました。ここでの主の晩餐にはどんな特徴や意味があるでしょうか。一つは誰だか知らない人との食事が、急に主の晩餐になったということです。ここにいたのは準備も知識も資格もない二人です。イエス様に「ああ、物わかりが悪く、心の鈍い」と言われた二人がこのパンを受け取っています。

何も知らない二人にそれが与えられたということです。信じている者が食べたのではありませんでした。信じて食べたのではありません。食べたら、その後目が開けたのです。二人は食べることで初めて目の前にいる人、今まで自分に寄り添ってくれた人、十字架によって死んだ人、復活された方がわかったのです。いままで自分と一緒にいてくれた、誰だかわからない人、それが主イエスだったとこのパンを食べて初めて知ったのです。

この聖書の箇所によれば、信仰が先にあってその確認のためにパンを食べたのではありませんでした。まずパンが先にあって、それを食べて、そこに確信が生まれたのです。洗礼が先か、晩餐が先かという問題がありますが、この場合では晩餐が先でした。晩餐によって、主イエスの存在に気づかされた。これがこの個所の大きな特徴です。

しかし今日ここで見たいことは、洗礼が先か、晩餐が先かというではありません。このように、聖書の中の主の晩餐は多様だと言うことです。最後の晩餐や、コリントの人々の晩餐を見てきましたが、それだけが主の晩餐の根拠ではないということです。

この「パンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き」の言い回しは次に見る5000人の給食でも現れる言い回しです。イエス様は本当にいろいろな人と、いろいろな場所で食事をする人でした。いろいろな場面で、いろいろな人々と持たれた食事、いろいろな主の晩餐の形があったということです。

最後の晩餐と言われる主の晩餐がありました。でもそれは1回きりで、最後だったのではありません。今日のように復活後も主は主の晩餐を繰り返しています。

様々な主の晩餐が伝えられていますが、それぞれ強調点が違うということが言えるのでしょう。最後の晩餐では、十字架に引き裂かれる体、流される血が強調されるものでした。コリントの人々は共同体ということを強調するものでした。

今日の主の晩餐の場面では何が強調されているでしょうか。復活の後だったということが大きな特徴です。その強調点は「イエス様は死んでもなお、私たちと共にいる」ということではないでしょうか。

イエス様は十字架にかけられ、その後、復活をされました。そのイエス様は気づかれないほどにそっと寄り添い、聖書を解き明かして下さるお方でした。そこで示されるのは、主イエスは私たちの気づかない場所で、私たちと共におられるということです。

今日の物語がまさにそうです。イエス様は失望や疑問を持つ者に、イエス様の側から歩み近づいてきてくださいます。私たちの言葉を聞いてくれます。イエス様は失望と混乱の道の途上でも、私たちと共にいてくれるお方なのです。

その道の中で、イエス様は聖書全体を解き明かしてくださいます。そして心を燃やしてくださいます。私たちと共にいて下さいます。

このことを二人は主の晩餐によってはじめて実感することができました。それを受けると、見えなかった主イエスが見えるようになったのです。気づかなかった主イエスの存在に気付くことができたのです。

この食事、主の晩餐を見て、私たちは次の主の晩餐をどのように受けるでしょうか。イエス様の食事が繰り返し行われ、様々な意味がこめられました。だからこそ主の晩餐の在り方も多様になってゆきました。教派、教会、個人によって様々な理解が生まれてきました。

私たち次の主の晩餐をどのように受けるでしょうか。今日は特にこのこと覚えよう、例えば十字架を覚えようという主の晩餐でもよいと思いますし、私たちの教会は主の晩餐のこの部分、共同体ということを大事にしようということもよいと思います。

イエス様はいろいろなメッセージを主の晩餐に込めています。私たちそれを豊かに受け取ってゆきたいのです。様々な意味があった、そのことを思い出して、次のパンと杯をいただきたいと思っています。

最後にこの二人の物語の続きを見てゆきましょう。32節、二人は一緒にいたのがイエス様だったと気づいたとき、すぐに道を引き返してエルサレムの仲間にそれを伝えに行きました。そうすると11人の弟子たちも復活があったと言っているのです。二人は自分たちが見たことを分かち合いました。互いに出会ったイエス様を証しあったのです。イエス様の主の晩餐とは、このようにして人を結び付けてゆくものです。失意や疑問を持った人々を結び付けるのが主の晩餐です。

その分かち合いをしている時、36節こういうことを話していると、再びイエス様が真ん中に現れたとあります。イエス様は集められた人々の真ん中に、現れて下さるのです。そして実はイエス様はまたそこでも何かを食べます。みんなの前で魚を食べてみせるのです。

私たちは毎月主の晩餐を持っています。そこでイエス様の十字架を覚えます。でも主の晩餐の意味はそれだけではないでしょう。イエス様が復活してもなお、私たちと伴い、私たちに教え、目を開かせ、信仰へと導いてくれる、そのことも主の晩餐で覚えましょう。そして神様はそこから信仰の仲間を与えてくれるのです。このこと主の晩餐から始まるのです。

私たちはこの主の晩餐を大事に守ってゆきましょう。私たちは主の晩餐で主イエスの十字架を覚えます。私たちの共同体を吟味します。そして主イエスが復活し私たちと共にいるこのことを覚え、主の晩餐をいただきましょう。お祈りします。