【全文】「群衆との奇跡の晩餐」マタイによる福音書24章29節~39節

群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。

マタイによる福音書15章32節

 

みなさん、おはようござます。今日もそれぞれの場所からですが、共に礼拝をおささげしましょう。私たちはこどもを大切にする教会です。家ではなく、教会でこどもたちの声を聞きながら礼拝できる日を楽しみに待っています。一緒に礼拝をしてゆきましょう。

私たちは9月は「主の晩餐」をテーマにしています。1回目は主の晩餐とは十字架を覚えることだということ、2回目は主の晩餐は共同体を吟味するということ、3回目は主の晩餐は復活を覚えることだということを見てきました。今回が4回目です。今日は主の晩餐は群衆との奇跡の食事を覚えることだということを見てゆきたいと思います。

今日の箇所は4000人にパンが配られたという話ですが、5月の宣教で似た箇所5000人の食事の宣教をしました。「食堂の教会」という宣教題でした。5000人、こんなにたくさんの人が食事するとき、誰かが誰かを助ける、助ける側助けられる側に分かれるのではなく、相互性のある助け合いの食事だったのではないかと考えました。そして私たちの教会もただ与える側にいようとするのではなく、地域と支え合う関係になろう。教会も5000人の一人になる時、地域や他者との境界線がなくなるのではないかという話をしました。

9月のこひつじ食堂はお弁当の調理も密になるので、無料の食料品配布をするということになりました。今教会にはたくさんの食品が集まるようになっています。お米やお菓子や野菜がどんどん集まっています。今回もたくさんのものを配ったのですが、自分たちが買ったものは、それを入れるビニール袋だけでした。私たちはそれを配っているのですが、それはどこからか不思議にささげられたものです。5000人の食事のような分かち合いが、教会で起こっていることを実感しています。

さて今日は、その5月の箇所と似た話が出てきました。そっくりな話です。マタイ福音書には、4000人の食事と5000人の食事、そっくりな2つの食事が記録されます。マルコも2度記録しています。ルカは1回です。もしかするとルカは似た話だから1回でよいと思って削ってしまったのかもしれません。今日はこの個所を主の晩餐と重ね合わせて読んでゆきましょう。そして前回の食事との違いも見ながら読んでゆきましょう。

まずこの個所は二重記事とも呼ばれます。おそらく1回の核になる出来事がありました。それはいろいろな伝えられ方をしました。そしてやがてそれは2つの出来事だったと理解されるようになりました。それが今日2つの記事になったと考えられています。

似た記事が2回繰り返されることは、そのような二重記事ということから説明ができるのですが、もう一つ大事なことは、この大勢の食事が二度記載されるほど、大事な出来事だったということです。繰り返す価値のある話だったということです。大事だからこそ、ここに繰り返されているのです。

そしてそれは本来は1回の出来事だったかもしれませんが、前回も見たように食事や主の晩餐は1回きりだったわけではありません。イエス様は何度もパンを裂きました。その食事は様々に繰り返されたのです。だからこそ聖書のなかで、繰り返しが起きているともいえるでしょう。ですから似た箇所だから飛ばすのではなく、私たちも繰り返し読んでゆきたいと思います。

この中で14章の食事と今日の15章の食事の違いは何でしょうか。5000人と4000人の人数の違いがありますが、それは大きなことではありません。一番の違いは29節~31節の記載だと思います。この奇跡の食事がどんな人と持たれたのかということの強調点が違うのです。

29節~30節、そこには様々な障がいをもった人々がいたことが14章よりも、より細かく記録されています。14章の5000人の食事も病気の人がいやされた後ですが、その様子は15章今日の箇所の方が事細かに書かれているのです。足、目、体、口、その他、いろいろな不自由や病を持った人がここにいたとあります。当時はよく(今もそうですが)病気と罪が結び付けられました。この人々の中には、おそらく病や不自由を持つことで、それだけではなく社会の中からのけ者にされた人もいたでしょう。立場が弱く、小さくされた人々こそ、この4000人の中にはたくさんいたのです。

ここにいた人々は異邦人・外国人だったのではないかという説もあるそうです。4000という数字が、四方から来た外国人を表しているという説です。もしかすると障がいをもった異邦人が、31節「イスラエルの神を賛美した」のかもしれません。

とにかく、立場の弱い、また体も決して強いとは言えない、この小さくされた人々がイエス様のもとにいました。そしてそこに癒し奇跡が起きたのです。癒しの奇跡とはどのような出来事でしょうか。私にはわかりません。本当にけががすぐに治った、病気が無くなった、手足が自由に動くようになったということだったかもしれませんし、それとは違うことだったかもしれません。

でもここにはとにかく話し、治り、歩き、見えるようになったとあります。そこでは少なくともイエス・キリストによって差別のない言葉がかけられたはずです。そして人々はその言葉から生きる力をいただいたのです。

それによって痛みは和らいだはずです。そして痛みと共に、痛み以上に罪だと指さされ、差別に悩まされていた人々が、イエス様に出会い、新しい希望を持つことができるようになったのです。そのようにして人々はイエス様に癒されたのです。

今日の食事はそのような障がいを持った人々、のけ者にされた人々がたくさんイエス様の下に集められ、そして癒されたという場面設定の後に始まります。癒しと共食(食事)がここでは連続し、つながっています。ここでイエス様は癒しの奇跡の後に食事をもったのです。イエス様は障がいをもった人々と一緒に食事をしたのです。

イエス様は彼らを見て32節「かわいそうだ」と言っています。かわいそうという言葉は注意が必要でしょう。かわいそうと思われたくない人もいます。どこか冷たさも感じる時もあります。

このかわいそうとは元の言葉は「スプラグニゾマイ」という、内臓に由来する言葉です。内臓に由来することから他の翻訳では「胸が張り裂ける」「はらわたがちぎれる」とも訳される言葉です。あるいは沖縄の言葉では「チムリグサ」という言葉も近いでしょう。それは深い共感の言葉です。相手の体の苦しみが、自分の体の苦しみに感じるということが、スプラグニゾマイです。

イエス様は人々の痛みや空腹を自分の痛みや体のことのように感じたのです。だからこそイエス様は疲れている人々を前に、このままで解散するのではなく、おなか一杯になってから帰ろう、そう呼びかけたのです。

そして次の奇跡がここで起こります。人々が癒されただけではなく、今度は足りないはずの食事が不思議と満たされたのです。ここでも一体なにが起きたかわかりません。みんなが隠していた分を少しずつ出し合ったのかもしれません。どこかから支援があったのかもしれません。本当に奇跡が起きたのかもしれません。しかし37節「人々は皆、食べて満腹した」のです。足りないはずのパンで満腹するという奇跡が起きたのです。

その食事の中身を見ましょう、36節です。私たちが今月毎回、繰り返し見てきたあの言い回しが登場します。この言い回しが出てきたら主の晩餐を連想してください。私たちの主の晩餐でも言われるあの言葉です。「パンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちにわたした」がまた今週も登場しました。ここでも主の晩餐が行われたのです。この病を癒された人々との奇跡の食事は主の晩餐だったのです。

ここでの主の晩餐にはどんな意味や強調点があるでしょうか。ひとつはイエス様は弱さを持った人、痛みをもった人、空腹の人を目の前にして、その人々に心底共感をしたということです。そしてここでの主の晩餐は、痛みを持った人々と共感しながらの食事だったということです。その痛みへの共感の食事こそ主の晩餐だったのです。

そしてこのことは主の晩餐で私たちが何を思い出すのかということを指し示しています。主の晩餐は単にこの奇跡を記念して持たれるのではありません。イエス様が苦しむ人々と共にある事を思い出すためにされます。そしてこの主の晩餐はそれを食べた私たちも他者の痛みに共感し行動することを促しています。

私たちはこの主の晩餐にあずかることによって、イエス様に癒され、満たされること、イエス様のように生き、行動するようになるのです。それが主の晩餐の意味です。

私たちは毎月主の晩餐をしています。その起源や意味を見てきました。聖書には様々な場面で「パンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちにわたした」が出てきます。そしてその様々な食事の中でも今日の箇所のイエス様が、弱さをもった人々と共におられたことを象徴する食事をみました。イエス様が傷ついた人々に希望を与える食事をみました。その食事によってすべての傷ついた人々が、一人も忘れされることなく癒され、満腹になりました。このようにして、この群衆は一つになったのです。痛み、奇跡、晩餐によってイエス様は人々を結び付け、一致させたのです。私たちもこのような主の晩餐を、毎月いただいているのです。

私たちの主の晩餐には、込められた意味がたくさんあります。十字架の体と血、共同体を吟味すること、復活を覚えること、そして今日のイエス様の奇跡と癒し、共感ということが含まれています。

来週いよいよ私たちは主の晩餐をいただきます。1か月主の晩餐の様々な意味をとらえてきました。いままでと違った思いで、その主の晩餐をいただけるのではないでしょうか。イエス様を覚え、主の晩餐を心待ちに1週間を過ごしましょう。お祈りいたします。